最終更新日:2022年11月11日
※選出当時(2003年)の内容を中心に記載
(株)石見銀山生活文化研究所 代表取締役所長
主な経歴
1949年
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三重県安芸郡芸濃町生まれ |
1991年
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石見地域デザイン計画研究会発足 会長 |
1998年
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株式会社石見銀山生活文化研究所 代表取締役所長 |
カリスマ名称
「わらしべカリスマ」
自然体の発想で、銀山町(ぎんざんまち)のにぎわい再興を仕掛ける。
選定理由
「それぞれの夢を大切にし、個人が光り、その結果、町も光る」との発想からユニークな企画を次々と繰り出し、町が活性化するとともに、地域住民のふるさと意識を高めた。また、自らデザイン・販売する生活雑貨は、石見銀山の生活文化を発信し、観光客の増加に貢献した。
具体的な取り組みの内容
世界遺産候補として暫定リスト入りしている「石見銀山遺跡」(2007年世界遺産(文化遺産)に登録)。遺跡跡の島根県大田市大森町は、かつて最盛期には20万人を超える人々で賑わいをみせていたが、今では500人ほどの人々が日々の暮らしを営むひっそりとした町である(2022年3月時点、392人)。
当時の賑わいはもはやないが、この地において、銀山を舞台にこの町にこだわりながら、この町にある、あらゆる素材をデザインすることをコンセプトにした異業種ネットワークを立ち上げ、各種イベントの実施などを通して、観光振興や街の活性化、住民意識を高めている元気印の女性がいる。
人々のたまり場に
松場さんは、日本の生活文化から発想するライフスタイルを提案するインテリア、衣料、生活雑貨の企画・製造販売を手がける(株)石見銀山生活文化研究所長を本職としている。
その松場さんが、異業種ネットワークを立ち上げ街の活性化に取り組んでいくきっかけとなったのは、自身が経営する生活雑貨店に、いつの頃からか近隣の行政マン、アーティスト、建築家、教員など実に様々な職種の人々が夜な夜な集まり、いつしかそこが夢を語り合う人々のたまり場になったのが始まりである。
まず「夢語り」から始めよう
職種はさまざまでも、人々が語る「夢」には共通するものがある。
それを松場さんはこう語る。「一口に言えば、石見銀山大森町にこだわりながら、この町にあるごくふつうのものをデザインし、情報発信したい。そしてそれに共感してくれる人たちが町を訪れてくれたら。」
さらに松場さんは、そのことを通じて地域の人たちがふるさとの良さを再認識し、地域のビジョンを自分たちの手で描けるようになるきっかけになってくれればとも願うのである。
「石見地域デザイン計画研究会」立ち上げ、会長に
たまり場に集う人たちは、いつしか自分たちの夢を語るだけでは物足りなくなり、ついに平成3年3月2日、異業種ネットワーク、ILPG「石見地域デザイン計画研究会」を立ち上げた。そして、松場さんをリーダーとして、自分たちの夢の実現に向けて歩き出した。
ちょうど、結成の翌日は隣町の仁摩町では世界一のふれこみで、砂時計がオープン。各地で地域興しが盛んに行なわれていた時期でもあった。
当時を振り返り松場さんは言う。「はじめから地域をなんとかしよう、という発想はなかった。会員それぞれの夢を大切にし、個人が光り、その結果、町も光るという発想を貫いてきた。」
「わら」を生かしたイベントの企画、運営
研究会がこれまでに企画、運営してきたイベントはさまざまである。
プロの音楽家を招いてのジャズやクラシックのミニコンサート、田舎に暮らす女性の意識を高め、より豊かな暮らしを考えるーを趣旨にした「鄙のひな祭り」は、一切の団体には声掛けせず個人のつながりだけで広めていった。そのため、初めのころ参加者は少なく、むしろ主催者側(当時はILPG)の人数が圧倒的に多かった。5年目を迎えた頃から地元の女性が参加しはじめ実行委員となり、運営は地元の女性たちが主となって動き始めた。まさにこの動きこそ松場さんが待ち望んでいたものであった。同時に松場さんは、このころから10年で終わろうと思い始めた。限りあるからこそ情熱を目標に向かって燃やせる。また、イベント的なお祭りは本来の目的ではなかった。偶然の出会い、思い立ったときの実行。日々の暮らしの中にこそ本当の感動があると思ったからだ。

鄙に暮らす女性の意識を高め、より豊かな暮らしを
考えることを趣旨とした鄙のひな祭り
さらに、交流の場として、文明を排除した家「群言堂」(現「無邪く庵」)を作った。中国の友人が命名してくれた「群言堂」とは、反する言葉が「一言堂」一人の権力者の発言で率いられる世界。「群言堂」は、群となった人たちがそれぞれに発言しつつも一つの良い流れを作ってゆく世界だそうだ。松場さんたちの理想とするところである。そして、この空間を「群言堂」と名付けた後に、松場さんのものづくりの中で「群言堂」というブランドが誕生することになる。

群言堂で集い、杯を交わす。
ここでは個と個が本音で語り合う。
また、「わら」が好きで「わら」を素材にした企画商品に「「わら」をもつかむ町おこし、「わら」をも活かすブラハウス(自社のブランド名)」というコピーをつけた。それは、当時の町おこしは、何もないから何かしなければという「わら」をもつかむ悲壮感が感じられてならなかった。どこの地域にでもある「わら」という素材を活かしてこそ本当の町おこしではないかと思ったからだ。
もの作りにも町おこしにも、彼女の発想の中にはそんな自然体が貫かれている。
石見銀山発のブランド
(株)石見銀山生活文化研究所長として松場さんは、都会では既に捨て去られた古い技術やモノを利用して、新たな都会での生活道具商品を創造している。松場さんの表現を借りれば、「復古創新」。こういった品々を販売する「ブラハウス」「群言堂」のショップは、廃屋と化していた江戸末期の民家を改装したものだ。本店の改装をきっかけに広島県から茅葺き民家の移築を含め6軒の民家を改装するに至り、それらの空間は松場流もてなしの場として活かされ、観光客のみならず、バイヤーや全国各地の商店街からの視察、外国人写真家などが訪れ、盛況ぶりを示している。

長い時を経過してきた町並みの風景の
美しさには無駄なものはない。手前右側が本店

中庭から店内、四季折々の変化の中で
ゆったりとした時間が流れる都会にはない贅沢である。
松場さんにとって廃屋は、次の夢を描ける貴重な資源であり、町にとっても財産であると考えている。
そして、こうして生まれた空間の中で五感を刺激され、もの作りが展開される。自分の生き方、個性を引き出してくれる服が市場になかったから、自身が気に入った服を自ら創るようになった。また、作品を通して発信する価値観を共有できる仲間が一人でも増えていくことを願ってデザインしている。そして、都会の人にこそ伝えたいと東京を中心とした関東地方に8店舗、京都・大阪に2店舗直営店を出し、現在では広島市にもアンテナショップを出すに至った。(2022年11月現在、31店舗)
大森だからこそ

撮り続けて12年(2022年11月現在、31年)になる
町民元気ポスター
研究会が次々繰り出すアイデアとイベントに、いつしか地域の人々も理解と協力を寄せるようになった。また、口コミで広がったユニークな企画を目的にやってくる観光客も年々増えていった。
それらが知らぬ間に地域住民の、自分たちふるさとの良さの再発見と自信につながり、住民自らの独創性で地域のビジョンが描けるようにまでなってきた。
この間、研究会発足から約13年。ようやく住民の意識も変わりつつある。かつて銀で栄え、大勢の人々が去来した大森。店の前を通るかつての銀山街道を眺めながら松場さんは自身の夢をこう語る。
「ここ(大森)はうそ事でも一度物語にすると、本当になってしまうような不思議な空間。中山間地域は大変というけれど、地域、時代はどうであれ、こうありたいと思う個人の主体性は抑えることはできない。だから楽しいストーリーを描いていきたい。そしてそれを形として発信することにより、それに引きつけられこの道を通って再び人々がここに帰って来ると信じている。」
かつて、銀山の町としてにぎわった大森。時を下ること500年、今、時代は大森に再びかつての輝きとにぎわいを取り戻すべく、彼女を観光カリスマとして大森に送り込んだのかもしれない。
かつては銀の発掘でにぎわった仙の山から見下ろした大森町。ここに登るたびに、松場さんはここで暮らしていることを実感するという。
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