最終更新日:2010年4月12日
(株)吉崎工務店 代表取締役社長
主な経歴
1947年
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島根県西郷町生まれ
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1970年
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千葉工業大学卒業
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1975年
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(株)吉崎工務店入社
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2003年
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西郷町商工会会長
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カリスマ名称
「観光による離島振興を進めるカリスマ」
選定理由
自然や伝統文化などの観光資源がありながら島民意識や遠隔地であることなど様々なネックのあった隠岐において、工務店の経営者という観光産業とは異業種の立場で、青年会議所の設立や交通機関の改善などに取り組んでいる。
具体的な取り組みの内容
青年会議所の設立
吉崎氏は、大学卒業後東京でしばらく会社勤めをした後、故郷の隠岐に帰って家業の工務店を継いだ。
隠岐の経済は、他の離島と同様、沈滞している状況にあった。当時、離島の振興策としては、まずは離島という地理的に不利な状況を克服することが必要であるということで、港湾や空港、さらには島内の道路をはじめとする社会基盤の整備が最も必要とされていた。
しかしながら、いくら社会基盤を整備しても、若年層の人口流出、さらにはそれによる少子高齢化は止まることはなかった。若者を隠岐に引きつけておくものがないからではないか、社会基盤整備により島が一時的に潤っても、それだけでは長い目で見るとどうなのか。そう考えた吉崎氏は、数少ない隠岐の若手経営者らと共に、隠岐の今後を考え、改善に向けて実行する必要があると議論を重ねた。その結果、若手が集まってもの申す体制を作ることとし、隠岐青年会議所を立ち上げた。昭和60(1985)年のことである。吉崎氏は初代理事長に就任した。「青年」会議所という名称である以上、40歳を迎えたら会議所を卒業するというルールのため、昭和62(1987)年に40歳を迎え、青年会議所を卒業したが、隠岐の今後を担う経営者の代表として、発言力を強めていくことになる。
隠岐地区雇用促進協議会の設立
昭和の終わりから平成の初めのバブル期には隠岐でも島内にある3高校の就職希望者は島内に留まらず、島内企業は若年労働者の確保に苦慮していた。
そこで、平成4年に若者の定住を図ろうと、西郷町商工会・隠岐法人会・西郷町へ働きかけ地元就職促進会を開き、翌平成5年に島前・島後の企業・行政が一緒になった隠岐地区雇用促進協議会を設立。当時は人手不足で協議会を通じて島内・外へ各企業が求人をしていたが、今は様変わりをし、不景気・少子化の中、島内就職希望者が増え、受入企業を探すのに懸命になっている。協議会設立の成果は確実に上がっている。
観光と交通
このままでは隠岐の活性化は実現しないと考えた吉崎氏は、定住人口もさることながら、交流人口を増やすことが必要だと考えた。そのための方策として最も重要なものは、観光の振興であるという考えに行き着いた。
隠岐には、離島であるがゆえの独自の文化・伝承が随所に残っている。また、牛突き(闘牛)などのイベント、さらにはマリンスポーツなども可能性を秘めている。こういった観光資源が十分に活かされていない。これを活かさない手はないとして、観光振興を進めていこうと考えた。
一つの方策が、本州と隠岐を結ぶ交通機関の改善だった。
空路については、プロペラ機がわずかに運航されていたのみで、観光客を多数輸送するということが物理的に難しかった。そこで、青年会議所のメンバーと共に、隠岐空港のジェット化を図るため、空港の滑走路延長を求める運動をおこした。この運動は結実し、隠岐空港のジェット化のための滑走路延長が空港整備7カ年計画に盛り込まれることとなった。現在整備が続いており、平成18年7月に供用開始の予定となっている。平成15年5月から隠岐空港整備・利用促進協議会理事長に就任し、ジェット化に向けての利用促進に尽力している。
もう一つは、海路である。飛行機は大量輸送機関とはなり得ず、観光客も地元の生活輸送も、フェリーなどの船舶輸送に大部分を頼っていた。ただし、フェリーでは速度の面で利便性が低く、本州側の港である境港(鳥取県境港市)又は七類港(島根県美保関町)から2時間半はかかっていた。
これについては、平成5年に、超高速船「レインボー」が就航し、本州と隠岐との間が一気に1時間程度に短縮された。この「レインボー」による増客効果が高かったとして、平成10年に、2隻目の「レインボー2」が就航した。
只、寄港地については、現在の本土側3港、島前3港、島後1港が利用客にとっては利便性が悪いため、本土側1港、島前1港、島後1港とする運動を起こしている。
観光と交通
島の玄関口として発達してきた西郷町中心商店街が、車社会への対応の不備や、郊外型店舗の増加等の影響を受け、年々衰退し、夏の歩行者天国「土曜夜市」の開催も商店街だけでは継続できにくくなった。そこで、商工会が中心となり平成6年から「ふるさとにぎわい事業」を創設、春の「桜祭り」・夏の「夏祭り」・秋の「食の祭典」としてイベントを行う事とした。
「桜祭り」は西郷町運動公園の桜並木に提灯を吊り、照明を灯し、特設舞台でイベントが行われ一晩に約2000人の人出でにぎわう祭りとなった。
「夏祭り」は西郷港近くの中心商店街を二晩歩行者天国にし、イベントが行われ、観光客、帰省客、島民で約1万人の人出でにぎわう祭りとなった。
「食の祭典」は隠岐島マラソンの前夜祭として、港近辺に屋台約30件を並べ、特設舞台のイベント等で約4000人の人出でにぎわう祭りとなった。
これらのイベントを年間観光行事に位置付け、島外へも大きくPRが行われている。また、後にこの「ふるさとにぎわい事業」が中心市街地活性化事業へとつながってきていることも大きな成果であるといえよう。
吉崎氏は、隠岐のうち「島後」と呼ばれる西郷町に活動拠点があり、西郷町の商工会副会長の任にあった。このとき、中心市街地の活性化について考える機会があったことから、この際に観光振興との関連づけについて考えた。吉崎氏は会長代行として実質的に議論を主導し、提言集として「西郷町の街づくり~中心市街地活性化の事業策定~」を平成13年3月にまとめ上げた。 観光の観点としては、江戸時代の西郷町の風景であった「北前船と都びとが行きかう風待ちの島里」をキャッチフレーズに、港湾整備をただ行うだけではなく、観光拠点や情報拠点となる西郷・島里の駅(仮称)の開設、島全体に花を植える「花いっぱい計画」から始まり、観光地ルートの整備、観光地の整備充実、歴史的建造物の保存活用、地場産品の開発などをうたっている。 吉崎氏は、家業の工務店として、歴史的建造物の保存活用に実際に参加し、国の重要文化財に指定されている江戸時代の庄屋の解体修理工事などを手がけている。
「立ち上がる隠岐国(おきのくに)」
さらに、官民一体となった離島総合振興会議により「立ち上がる隠岐国(おきのくに) 隠岐21C活性化プラン~新離島振興計画への提言~」が取りまとめられた。
吉崎氏は、離島総合振興会議の正式メンバーである西郷町の商工会会長に代わって参加、観光を中心とした提言づくりを進めるように作業に取り組んできた。その結果、これからの隠岐は、自然や伝統文化といった特性(資源)を活用し、島の魅力を高めることで、交流人口の拡大を図り、そこから発生する物やサービス、さらにはこれを担う人材の新たな需要により、様々な産業に好影響をもたらす新たな循環の輪を作ることが必要であることが基本理念として明言され、吉崎氏の考え方を色濃く反映したものとなった。
特に、交流人口については、ジェット機が就航できる入込客数を目指す。また、年間総生産についても観光をリード役としながら100億円増加(現在826億円)させることを目標に掲げた。
そのための施策として10の項目が掲げられているが、トップに据えられたのは観光であった。交流人口の拡大には特に観光振興による誘客が必要であり、まず、統一された「隠岐イメージ」による情報発信を行いながら隠岐の歴史・伝統文化・自然を組み込んだ体験滞在型観光メニューの充実を図り、併せて観光をリード役としながら農林水産業の連携をはかることがうたわれている。地産地消を進めようと林業面で平成14年8月に「隠岐の木で家をつくる会」を立ち上げ、農業・水産面でも組織作りを今年度中に実施予定。
隠岐のこれから
隠岐は、ようやく観光の振興に目覚めたばかりである。交通機関の整備もさることながら、隠岐の観光資源そのものを開発する取り組みは、まだこれからである。5,6年前から島前・島後のイベントにお互いが協力する体制づくりが出来上がり、「隠岐は一つ」というムードが育ちつつある。この様に、公共事業の受注のみに頼る経済からの脱却を図り、交流人口を増やして活性化を図るという考え方が根付いてきたと言える。これは吉崎氏がねばり強く繰り返し主張してきたことであるが、島民の意識が吉崎氏にようやく追いついてきたということでもある。吉崎氏の仕事はまだ始まったばかりである。