最終更新日:2010年4月12日
出石城下町を活かす会 元会長
株式会社上田屋油店 代表取締役
主な経歴
1980年
|
出石ライオンズクラブ会長就任 |
1984年
|
「静思塾」設立、代表幹事就任 |
1988年
|
「出石城下町を活かす会」設立、会長就任 |
現在
|
出石町観光協会 顧問
出石町商工会 副会長
出石まちづくり公社 取締役 |
カリスマ名称
「町民主体の町づくり仲間を集めたカリスマ」
兵庫県出石郡出石町の美しい町並み保存運動を町民主導で進めた。
選定理由
昔ながらの城下町の雰囲気を残すことを目的とする「出石城下町を活かす会」を設立し、住民主体の町づくり意識を高揚させた。また、町並みの保存活動とともに、伝統的な「皿そば」のPR活動により、観光地として認知度の低かった人口1万人の町に年間100万人という観光客が訪れるまでに成長させ、地域の活性化に貢献した。
具体的な取り組みの内容
出石町は、城崎温泉や天橋立の有名な観光地の中間にあるにもかかわらず、観光客がほとんど訪れることはなく、周辺地域に取り残されていく町であった。上坂氏は、故由良寛市氏、故石田周三氏や故井上照夫氏等と共に、そんな町をどうにかして観光客が訪れる町に発展させたいと考え、同じ思いを持つ仲間を集め、観光協会の改組、観光名物の開発などを手がけた。
また、観光客が増えるつづける中、出石の町づくりはこのままでいいのかという疑問を持ち、町の人々へも働きかけ、出石の町づくりの在り方について、町づくりや建築家などの専門家を交えて議論を行い、上坂氏が中心となり町民主導の町並み保存運動に取組んだ。

城下町 出石

町のシンボル「辰鼓櫓」

大名行列
江戸時代をしのぶ祭り。子供大名行列、大人大名行列が繰り広げられる様子は、出石の名物の一つである
住民主導の観光協会の先駆け
数名の同志らとともに上坂氏は、まず、昭和48年に観光協会の改組に取り組んだ。改組では、いままでの観光関係者のみの組織に町民を巻き込み、町を挙げて観光で頑張るという目標を掲げ、一般の町民へ観光協会参加の呼びかけを行った。
商店、サラリーマン、医者、町議会議員などの様々な職種の異なる人々、総勢400名程度が集まり、町の人々が参加した協会運営及び活動が行われるという、当時では全国的に例を見ない一般町民が参加する観光協会に生まれ変わった。
「静思塾」に学ぶ
郷土の政治家の斎藤隆夫を偲んで建設された記念館「静思堂」で、様々な専門分野の講師を招き、話を聞きき、斎藤隆夫の精神を勉強することを目的として始まったのが「静思塾」である。代表幹事を勤める上坂氏は、この活動を通じて、町づくりの専門家や建築家などと交流・議論するなかで、「出石の魅力は、昔の城下町と町並み雰囲気にある」と結論を得て、出石の美しい町並みを保存する運動のきっかけとなる。
当時は、出石には町並み保存運動をする団体が無かったため、10名程度の町民らとともに発起人となり、ライオンズクラブを中心に行政と協力し、「兵庫町並みゼミ」を出石で第1回目を開催した。また、同年、出石町は兵庫県の景観形成地区に指定された。

伝統的町家景観通り、魚屋通り
町並み保存活動
「出石城下町を活かす会」設立 出石の町並み保存の活動は、「静思塾」や「兵庫町並みゼミ」で町づくりの刺激を受けた人たちが中心となり、40名程度の仲間を集めて始めることは簡単であった。しかし、せっかく町並みの保存活動をするなら、できるだけ多くの人たちに参加してもらおうとし、上坂氏らは町民に働きかけ、歴史遺産に恵まれた出石の町並みを守り、明日の出石をつくる「出石城下町を活かす会」を昭和63年に設立した。
会には、町づくりには必要な大工、屋根屋、左官といった建築関係者を含め総勢186名が参加した。設立当初より上坂氏は会長として、町民・行政・専門家が協力した町づくりを進めることを考え、町並ウォッチング、講演会や出石の地酒(「楽々鶴」や「緑」)を観光シンボルとなるように、「酒蔵コンサート」の開催、「地酒を飲む運動」などの活動を主導した。

出石の色、酒造の土壁
また、他のまちづくり団体との交流を通して、出石の町づくりの精神が他地域に対しても影響を与えてきた。そういう「出石城下町を活かす会」や「静思塾」の活動では、基本的には行政からの助成金をもらわず、町の審議会や委員会などに積極的に参加し、行政に対して思い切った発言やさまざまな提案を行うなど、住民自らが町づくりをしていくという精神を貫いている。
こうした上坂氏が町づくりをしてきた中で苦労した活動の一つに「永楽館」の復元運動が挙げられる。「永楽館」は、近畿地方唯一の明治時代に建てられた江戸時代様式の芝居小屋である。この復元活動には10年以上もの歳月をかけており、「永楽館」の持ち主のところに話を持っていき、何度も足を運び、「永楽館」を復元することの重要性を説き続けた。
そういった努力もあり、ようやく永楽館の建物自体を町に寄付してもらえるまでに漕ぎつけることができた。その後、土地についても譲ってもらえることになり、歴史的な重要な建築物が出石で再び日の目を浴びる日が近い。

当時の舞台機構がそのまま残る
芝居小屋「永楽館」
商工会の大改革
当時の商工会では、役員は老齢化し、会長も長年やっていて、新しいことを提案してもなかなか受け入れてもらえなかった。そのため、青年部の初代会長であった上坂氏が中心となって、組織の若返りを図り、思い切って新しい事業に取り組めるような体制を築きあげた。
新体制になってからは、若い感覚で新しい事業のお店をやりたい人を公募して、観光客が多く集まり、人通りが多い場所に貸店舗を作り、貸すといったいままでの商工会にはできなかったことを実現し、町の活性化に貢献する商工会へ変えた。
「皿そば」を出石の名物に
出石の「皿そば」は、宝永三年(1706年)松平氏が、信州上田の仙石政明と国替えとなった際、信州からそば職人をつれてきたのが始まりとされている。昭和40年頃までは二軒のそば屋で、しかも10月から翌年の3月までの半年間のみ営業されていた。 昭和40年代には、出石町には観光の名物となるものがなかったこともあり、上坂氏らはこの伝統的な出石の食文化である「皿そば」に目を付け、年中食べられるように工夫したことにより、出石名物「皿そば」を作り上げた。
また、観光協会役員とそば屋が一緒になって、交代で全国に実演販売等のPR活動を行った。そういった地道な努力をすることで、観光客がほとんど来なかった町に、美しい町並みを観光する他に「皿そばを食べたい」といった新たな観光客も増え、年間100万人の観光客が訪れるようになった。また、その当時、ちりめん業界の不況の影響など地場産業が不振になったこともあり、そば屋に転身する人たちが増えた。今では、そば屋は50軒にもなり、「皿そば」を有名にしたことで、出石の伝統・文化を伝えるといった地場産業の活性化につなげたのである。

手打ち皿そば

桜咲く時期に出石城址で開催される
「そば喰い大会」(毎年4月第2日曜日)

そばの花
観光協会の事業部門の法人化
観光協会では、当時少なかった皿そば屋やお土産屋の経営を行い、観光客も増えていたので、多額の利益を得ることができた。この利益は、町の観光振興基金条例に基づいて観光振興基金に積み立てし、更なる町づくりのために役立てた。
平成10年に商工会を中心として、観光協会の事業部門を切り出し、第3セクター方式として法人化を行い、「(株)出石まちづくり公社」を設立した。その際、いままでの町民みんなでまちづくりをやってきたことを考慮し、一般町民に1株5万円で出資を呼びかけところ、人数をオーバーするほどの応募があった。公社を設立することで、町民の出石の町づくりに対する関心をさらに高めることになった。
TMO(タウン・マネジメント・オーガニゼーション)認定
上坂氏ら役員は、「(株)出石まちづくり公社」を中心市街地活性化するTMOと認定されるための企画・申請を行い、平成11年に認定される。平成12年、町有地に皿そば以外の新しい業種の貸店舗「びっ蔵」を作った。こういった新しい出石の名所を作るなど、TMOとして全国に先駆けた試みである。
また、公社が会社として運営していく以上、赤字ではいけないという気持ちを持ちつづけて努力してきたことにより、利益をあげることができた。この利益により、株主である町の人々に配当という形で還元し、一方、貸店舗の地代を町に支払うことにより町政を潤すことに貢献している。
次世代の町づくりのために
町づくりを行う場合、若い人たちにも参加を呼びかけてきた上坂氏は、若い人たちが活躍できる場を創造してきた。また、商工会なども含めどんな活動団体であれ、長年同じ仲間でやっていくと、組織としての活気がなくなってくるため、役員の若返りを行うなど絶えず世代交代は必要だと主張する。
また、町づくりに欠かせないのは女性の参加である。出石では、女性だけの「まちづくり協議会」を立ち上げた。現在会員は70名参加している。
【とよなかまちづくりフォーラム「まちを活性化するしくみづくり・まちづくり」
(フォーラムレポートNo94)を参考に作成】