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上地 長栄・健次・敏夫

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最終更新日:2012年9月20日

上地 長栄(うえち ちょうえい)
沖縄県観光事業協同組合 代表理事(沖縄県那覇市)
上地 長栄

主な経歴

1948年
沖縄県生まれ
1973年
(株)国際サンゴ加工所
1982年
琉球村 多幸山(株)
1985年
沖縄物産製造業の(株)八宝物産
1990年
うりずん(株) 取締役
1995年
農業生産法人うるま農園(有)
1998年
沖縄県観光事業協同組合 理事長
1999年
パラダイス(株)代表取締役
2003年
あやぱに(株) 八重山民俗園
上地 健次(うえち けんじ)
株式会社国際サンゴ加工所 顧問(沖縄県那覇市)
上地 健次(うえち けんじ)

主な経歴

1950年
沖縄県生まれ
1972年
国際サンゴ加工所 取締役工場長
1973年
(株)国際サンゴ加工所
1982年
琉球村 多幸山(株)
1988年
スズキマリーン沖縄(株)
1990年
うりずん(株)取締役
1995年
農業生産法人うるま農園(有)
1998年
沖縄県観光事業協同組合 理事
1999年
パラダイス(株) 取締役
2003年
株)国際サンゴ加工所 代表取締役
上地 敏夫(うえち としお)
多幸山株式会社 代表取締役(沖縄県恩納村)
上地 敏夫(うえち としお)

主な経歴

1954年
沖縄県生まれ
1977年
(株)国際サンゴ加工所
1982年
琉球村 多幸山(株) 
1985年
沖縄物産製造業の(株)八宝物産
1988年
スズキマリーン沖縄(株)
1989年
うりずん(株)琉宮城 取締役
1993年
琉球村 多幸山(株)代表取締役
1995年
農業生産法人うるま農園(有)
1998年
沖縄県観光事業協同組合
1999年
パラダイス(株)
2003年
あやぱに(株) 八重山民俗園 代表取締役社長

カリスマ名称

「伝統琉球民家を観光施設として蘇生させたカリスマ三兄弟」

選定理由

近代化が進むなか、建て替えられようとしていた沖縄の伝統的民家7棟を恩納村に移築。琉球村として生活感のある古き良き風景を再現した。施設では地域のお年寄りを多く採用し、伝統行事の披露を行っているほか、各民家では染織や陶芸、三線などの教室を開いて、多くの人々が琉球文化の真髄を身近に体験できる機会を提供している。琉球を愛し、体感できる形で琉球文化を観光施設と一体化することに成功、琉球文化の紹介と継承に貢献している。

具体的な取り組みの内容

「琉球村」構想

戦前、沖縄県には、琉球王朝時代の栄華を語る国宝級建物や、文化財、建造物、古い町並み等、11件(10棟、10基)22点の国宝建造物があったが、そのほとんどは戦火をあびて、跡形もなく消滅した。

1975年(昭和50年)「沖縄国際海洋博覧会」の開催を契機に、新たに沖縄観光が注目されるようになり、観光産業は県経済を支える重要産業として位置づけられ、成長してきた。「琉球村建設構想」は、このような背景の中で誕生した。琉球村プロジェクトは、沖縄観光が、「青い海、青い空」という自然景観・海の魅力を中心としていたのに対して、独特の文化を生み出した琉球王朝文化にテーマを合わせるものだった。  

1970年代前半、復帰直前の沖縄観光は、米ドルで買い物が出来ること、また外国品のウイスキー、コーヒー、チョコレート等が安く買えるという魅力を売り物にした「ショッピング観光」の時代だった。その中でも、沖縄産サンゴの加工品は、宮古近海で豊かな宝山ソネ・サンゴ漁場が発見されたこともあって、県産観光土産品の主力商品として脚光を浴びていた。
国際サンゴ加工所にて(健次氏)
国際サンゴ加工所にて(健次氏)
長男の長栄氏は、その頃、父親である栄氏が創立した那覇の国際サンゴ加工所で、次男の健次氏と共に観光の中心産業である土産品販売の業務にたずさわっていた。長栄氏は、ショッピングに訪れる観光客に接しながら、沖縄観光の内容に、何かが不足しているのではと、いつも疑問を感じていた。

観光客誘致のために本土各地をくまなく営業して回り、その時に、沖縄が自信を持って誘客出来る観光資源はないか、沖縄に残されている琉球王朝文化は、紅型、漆器、琉球舞踊等の本土と違う異質の素晴らしい伝統工芸、芸術を残しているが、なぜそれを創った人達の歴史と生活が見えてこないのか、なぜ沖縄観光に歴史のテーマ館がないのかを考えていた。そして時間の経過と共にその物足りなさは、琉球王朝文化を継承する観光施設がないことだと見えてきた。やがて、誇るべき琉球文化と歴史に付加価値をつけ、観光資源として具体化するという事業構想を思い立った。

具体的には、本土の観光地で見られる「歴史観光」の分野が、沖縄観光には不足していたと考え、王朝文化が息づいていた時間と場所の創造・復元、また、文化を制作する段階から作品になるまでを展示するという構想だった。600年前に誕生した海洋国家「琉球王朝」は、中国、朝鮮国、日本、東南アジア等との交易を頻繁に行い、国際貿易の莫大な利益を基盤にして、独白の王朝文化を生み出し、継承されてきた。また、日本文化のルーツと言われる独特の伝統文化、工芸品も生み出している。

例えば、紅型(染め物)、琉球絣(織物)、琉球芸能、サンシン(三味線)、空手、泡盛等は、異国の文化を取り入れた独特の伝統芸術であり工芸文化だ。そして、これらの琉球王朝文化を生み出した基盤は、王侯士族だけのものではなく、当時の民衆の活力と英知もまた、重要な要素の一つであった。民衆文化を支えてきた具体的な生活の場であった「旧家」が、100年、200年以上の月日を経て、当時の沖縄の各地に存続していた。

文化遺産とも言うべきこれらの旧家を一堂に集めて展示し、琉球王朝時代の民衆の息吹、文化をよみがえらせる事が、沖縄の歴史観光の素材になりうると、長栄氏は確信し、沖縄に歴史と文化を伝える琉球民俗村があっても良いのではないかと、自問自答しながら、明治村(愛知県犬山市)等本土各地の歴史観光施設を、自分の目で調べていた。そうした中で1980年(昭和55年)、海洋博公園内に17、8世紀頃の沖縄の村落を再現した「沖縄郷土村」が開園した。

しかし、長栄氏はその施設を見て、自分の構想とは違うものを感じた。あくまでも彼のイメージは、家屋と、そこに生きた人々の息吹と生活感の再現であり、このハードとソフトが共存するテーマパーク・琉球民俗村の創設だった。三男の敏夫氏の発案で、民俗村のネーミングを「琉球村」と決定した。建築、旧家の情報、誘客、動員、宣伝、テーマパーク運営のマニュアル、ノウハウのほとんどがなく、沖縄ではまったく未知の事業だったが、構想は実現に向けて歩き始めることになった。

旧家の解体・復元

琉球村にて(長英氏)
琉球村にて(長英氏)
現在、「琉球村」には移設復元された、百年以前の旧家・七棟と、復元家屋一棟が展示されている。最初の移築展示は、 1981年(昭和56年)に実施されたが、これらの旧家の遠くは、八重山石垣市など沖縄全島各地から蒐集・移設されている。  

構想の実現にあたり、最初に、土地の選定・確保から始めた。新しい開発地域、既存施設等の候補地の中から、生活の源である「水源地」の確保、那覇から一時間以内のロケーション等の条件を満たしたのは、当時多幸山ハブセンターとして開園していた観光施設だった。その経営権移譲を受け、現在の琉球村の用地が決定した。  

次に、移設するための「旧家」の情報を収集した。「鉄の暴風」と呼ばれた爆撃を受けた沖縄で琉球国の先人達が築いた文化遺産を見つけることは、容易な事ではなかったが、100年、200年前の旧家が幸いにも残されているという噂がいくつかあり、当時ハブセンターとして開園していた琉球村へ全島からハブを届ける「ハブ取りの名人達」を情報収集のネットワークとして活用した。  

情報では各村々で戦火を免れた木造旧家は、次々と戦後のブロック建築に建て替えられ消えていくという状況だった。長栄氏は、強い危機感を抱き、旧家の情報を受けて沖縄全島を巡回し、旧家を訪ねて空き家を調査した。先祖の歴史と息吹がしみこんだ家を解体して譲渡することは、即座には賛成しかねる場合がほとんどで、そのつど、琉球村の事業目的を説明し、理解してもらうという説得作業から始めた。戦火をくぐりぬけて残された各地の旧家は、ウチナーンチュ(沖縄県人)の先人達の生活と知恵の結晶であり、これらの生活文化の遺産を移設展示することによって後世に継承することの必要性を訴え、説得を続けた。   

旧家の復元は、形としての家屋を移設展示するだけではなく、そこに住んでいた人々の100年以上前の生活の息吹を、現代によみがえらせることが必要だった。アシャギ、家屋、カマド、座敷、庭等の空間に、人を配置し日常生活を再現し、見る人に生活体験を味わってもらうためには、屋外の施設の移転も必要となる。しかし、これから建設される琉球村にはそれまでのハブセンターのイメージが強く、所有者の中には旧家がハブ展示館に使用されるという誤解をし、交渉の翌日、長栄氏の目の前で解体されるというケースもあった。こうしたやりとりを経て、何棟かについて所有者への説得が通じ移設が可能になった。   

次は解体と移動の問題が生じた。まずは解体、移動、保管、組み立てのプロを確保することだった。近代建築の技術者に比べて木造家屋の専門家が人材不足という状況の中、沖縄木造家屋で建築歴30年のベテラン棟梁を含むプロジェクトチームが編成され、上は60代から下は20代までという、幅広い年齢層のチームとなった。解体にも多くの困難があったが、復元には、熟練した建築技術者の知識が必要でさらに様々な苦労があった。沖縄独特の貫き穴式の柱工法、間口の梁強度、縁床と座敷の段差調整などで、建築当時の技術を再現する施工が必要で、さらに床の間、仏壇、フール(トイレ)等を再現するためには、 100年以上前の民俗風習知識が必要になった。

アシャギ(礼拝所)に必要な沖縄独特の石柱の確保には、瀬底島などの他の島々まで出かけて入手しなければならない時もあった。粟石で作られた「ヒンプン」を移設する際には、解体、組み立てをする石大工の不足で、建築につかうH型鋼で枠組みを作り、重機を使った大がかりな工事も必要だった。

施設の紹介

琉球村内の家並み
琉球村内の家並み
観光施設はつくっただけではお客様は来ない。新しい観光施設ができたという情報を旅行客に届けなければならない。

そのためには全国の旅行社を一軒一軒訪ねて琉球村を売り込んでいくことが必要で、これを担当したのが次男の健次氏である。

新しい施設を観光客に認知してもらい、旅行社の沖縄商品の中に組み込んでもらうために、北海道から九州まで全国を回り、開業1年前から主要旅行社の商品企画担当部門に日参して、琉球村の意義や体験できる内容を一から説明した。

だが、何しろまだできあがっていない施設の説明であり、琉球村は精密な園内の設計図があるわけでもなく、井戸を中心に風水思想も取り入れ、民家を一棟移築したらその風景に合わせて他の民家の移築場所や施設を創り上げていく方法を採用したため、急に施設の場所が変更されることもあった。紅型や機織りの職人の確保と並行し、オープンまでに体制が整うかどうか時間との競争だった。

長栄氏が建設は必ず間に合わせるといい、運営を担当する三男の敏夫氏はスタッフをそろえ最高のサービスを提供すると約束した。健次氏はそれを信じ、お客様から「琉球村とはどんなところか」と聞かれたときに、旅行社の担当者が「沖縄の伝統的な民家を復元した初めての施設で、伝統工芸の体験ができるところ」と応えてもらうためにも全力で地方都市の旅行社にも飛び込みで営業を続けた。その結果、大手旅行代理店をはじめ、多くの旅行社が開業にあわせてパンフレットに琉球村を組み込んだ。そのおかげもあり、開業後の入園者は新設の施設としては多数の集客となった。

施設の運営

琉球村にて(敏夫氏)
琉球村にて(敏夫氏)
現在のように旧家の数が揃うまで、琉球村は、移設工事の連続だった。入園者からはまるで工事見学ともいわれるほどだった。

独自の経験を生かして廃油を使った新しい防腐剤の開発も生まれた。シム(台所)も、展示するだけではなく、実際にお菓子や料理づくりに使用していくうちに、煙の効用が旧家の虫の駆除や木材の乾燥に思いの外の働きをすることが分かってきた。チ

ヌグ(網代)も、近隣の古老から編み方を伝授してもらい、その技術が継承されている。「高倉」に使用する網代の角度は、太陽の直射日光を防ぐ防熱の役割があった。年に数回来襲する台風対策としては、木造家屋専用の養生があり、雨戸の内と外に一本ずつ横棒を渡して紐で結び、雨戸を挟み込むという昔ながらの方法が最善だった。そして近年は、オープン以来 20年間の植裁が成長し、防風林となってその効果を上げている。  

実際に入園するお客を案内し運営を担っているのが敏夫氏である。近隣の高齢者に旧家で沖縄のお菓子を作ってもらい、お客様にお茶を出したり、三線を弾いてもらった。沖縄に古くから伝わる年中行事も再現してもらった。
三味線でおもてなし
三味線でおもてなし
(琉球村内民家で来訪者を三味線で歓迎)
近隣のお年寄りたちは当初、琉球の衣裳を着て、当時の日常を再現して欲しいという要望に恥ずかしがって応じなかった。また、多くのお年寄りが染めや織りの技術を持っていたが、人に見せるものではないと考えていた。  
しかし、敏夫氏の必死の説得に一人、二人と応じるお年寄りが増え、実演してみると観光客とのやりとりにも面白さがあることが理解され、最近ではTVインタビューを受けたり、カメラの前で踊りを披露したりするのも楽しんでくれるほどになった。
琉球村の道
琉球村の道
(村内の石垣に囲まれた道を歩く村人)
高齢者から若手への伝統工芸の伝承にもつとめた。染め、織りの道具や機械を置いて体験教室として訪れる観光客に体験してもらった。沖縄の伝統の薬草茶や料理教室も常設で開催し、人気を集めた。昔ながらの水牛にひかせる「さとうきびしぼり」の場面は雑誌やTVロケで多く活用された。

また、従業員に沖縄の夏祭りとして各地で演じられるエイサーや三線を覚えてもらい、誰もが郷土芸能を演じられるように態勢を整えていき、園内でエイサーを毎日披露した。このほか、毎年、敬老の日には周辺のお年寄りを招待して敬老会を開き、沖縄の芸能ショーを演じ、空手の演舞を見せ、喜ばれている。ゴールデンウィークには子供たちに人気のキャラクターによるショーを演じ、沖縄の伝統文化を小さなうちから見る機会を設けた。
サーター屋(琉球村内にある黒砂糖をつくるサトウキビ圧搾風景)
サーター屋(琉球村内にある黒砂糖をつくる
サトウキビ圧搾風景)
こうした活動を続けているうちに、いつの間にか琉球村から生活の臭いが漂うようになり、当時の息づかいがかすかに聞こえるようにもなった。家屋は人がその中で生活している場合と、空き家にしている場合とでは、耐用年数が違い、空き家の場合には、空気がよどみ、傷みも数年早い。その意味では、家屋も琉球村のスタッフや入場客とともに生きていると言える。

現在、昼間の各旧家では、お年寄りの生活感あふれる笑顔がみられ、庭には鶏や、アヒルが行き交い、古き時代の村人の生活が再現されている。移築した旧家は昔からそこにあったような風格を醸し出し、開村から10年経つ頃には「誰にもマネができない、計算してつくれない」と感嘆される独特の琉球村ができあがり、訪れる人が癒される施設となっている。

沖縄のシンボルに

琉球村(清掃して来客者を迎える)
琉球村(清掃して来客者を迎える)
琉球村は数年おきに大がかりな施設拡充を行ってきた。長栄氏が陣頭指揮を執り、駐車場をお祭り広場にして、エイサーを楽しんだり、ショッピングができるようにした。

さらに雨天でもお客様が雨に濡れないようにお祭り広場に透明な屋根をつけドームにした。また、琉球村スタッフで劇団を結成し、ドーム内に劇場をつくった。現在は劇団の腕も上がってきたので、コンベンションにも使える1000人収容の大型劇場建設の構想も進んでいる。

最近では、ドーム内にミニチュア版の琉球旧家を再現し、さらに楽しいショッピングができるように改装もした。  このほか新たな取り組みとして注目されたものの一つに、琉球村を訪れた観光客に世界遺産や他の観光施設、イベントのパンフレットを提供し、沖縄全体の情報センターとして役立てている。この取り組みはレンタカーで沖縄を観てまわる最近の旅行客のニーズに応えるもので、好評を博している。
ドーム内の家並み(ドーム内にあるミニチュア版琉球民家 売店として活用)
ドーム内の家並み(ドーム内にあるミニチュア版
琉球民家 売店として活用)
琉球村開村から20年を経て、琉球村は県民からも観光客からも親しまれる沖縄のシンボルになっている。また、かつてアドバイスを受けた明治村の運営会社である名古屋鉄道が石垣市八重山に所有していた「八重山民俗園」を手放す際は、うえちグループで施設を引き受けることにした。 かつての琉球村設立の頃を覚えているスタッフが残っており、トントン拍子に話は進んだという。そして八重山民俗園は琉球村のノウハウを取り入れ、新たなスタートを切っている。

琉球王朝のように豊かな沖縄を目指す

兄弟各氏は、沖縄の人が自然に持っている「肝清らさ」「人を迎える優しさ」をどう深めて、どう表現していくかについて新たな展開が必要だと考えている。それは、琉球村の経営で地域産業が活性化できれば、若い人たちのUターンを進めることができ、そして地域を支える若い人たちが沖縄のよさを受け継いでいくことができれば、さらに地域振興に貢献できると考えているからである。

社会生活の中で、仕事のため、社員のため、地域社会に貢献することをモットーとしている兄弟各氏は、こうした取り組みを通じて、観光立国によって大交易時代の琉球王朝時代のような豊かな沖縄の再現を目指している。
道ジュネー(二十日正月風景)旧暦1月20日の行事で琉球村内でも執り行われる  
道ジュネー(二十日正月風景)旧暦1月20日
の行事で琉球村内でも執り行われる  

参考資料

・観光とけいざい 沖縄観光速報社
・沖縄タイムス 関連記事
・琉球新報 関連記事
このページに関するお問い合わせ
琉球村 多幸山(株) 常務取締役 仲松 徹様   
電話 098-965-1234   
FAX 098-964-3411   
E-mail info@okikankyo.com    

関連情報はこちら→琉球村のホームページ

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