最終更新日:2010年4月12日
鳥取県智頭町長(鳥取県智頭町)
主な経歴
1943年
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鳥取県智頭町生まれ |
1972年
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株式会社光南 取締役社長 |
1979年
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鳥取青年会議所 理事長 |
1989年
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鳥取県智頭町森林組合理事
鳥取県智頭町教育委員 |
1997年
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鳥取県智頭町長(~2004年) |
カリスマ名称
「日本の原風景に磨きをかけ、過疎地を観光地に変えたカリスマ」
選定理由
かつて林業で栄えたものの深刻な過疎化に悩んでいた鳥取県智頭町において、住民の熱意と協力を引き出し、日本の原風景的な地域の自然そのものや古い建物、生活文化などに磨きをかけ、観光資源として活用するまちづくり、観光地づくりに成功した。
具体的な取り組みの内容
智頭町は、鳥取県の東南部、岡山県に接する県境地帯に位置する。県都鳥取市から30kmほど中国山脈を分け入った山間地で、1000メートル級の山々に囲まれ、町全体も93%が山林で占められている。古くから山陰と山陽、近畿とを結ぶ宿場町として栄えたが交通機関の発達し「通過点」となり、また、「智頭杉」の産地としてかつては林業で栄えたが、近年では林業従事者も激減している。結果、昭和30年代に1万5千人近くあった人口も、現在ではその3分の2の人口約9千人台とまで減少していた。
「深刻な過疎化に悩み、このままでは町がつぶれる」との危機感を抱える中、平成9年に寺谷氏は町長に就任した。

智頭町の位置
大都市に勝てる「何か」
町長就任直後から寺谷氏は、「小さな町が大都市に勝てる何かの武器はないか」と考えた。大都市にある大きなビルはないが、空気と水なら負けない、そして、宿場町ならではの古い建物ならまだ多く残っているという、智頭町独自の特徴に着目した。
また、鉄道(智頭急行)の開通により、山間部にはあるが京阪神からのアクセスも便利になり、智頭町の特徴を活かせば、人を惹き付けることができると考えた。
戦後の経済発展で日本から消えていった、農山村の生活様式や人の心、地域を振り返る時間を再評価し、住民にはその地域に住む意義を、そして、来訪者には町全体を屋根のない博物館ととらえ、地域の歴史と文化に容易に触れ合える空間を提供する。こういった着眼点から、当時、目立った観光拠点も無くごくありふれた山間の過疎地だった智頭町は、『美しい空気と水をバックにした「古いもの」を大事にしたまち』をアピールポイントに、観光を主眼としたまちづくりをスタートすることになる。
歴史的木造家屋「石谷家住宅」の一般公開
大都市からこの智頭町に人を呼ぶには、智頭町を象徴するような「核」が必要である、寺谷氏は真っ先にそう考えた。
町中心部にある国登録文化財の歴史的木造家屋「石谷家住宅」。約1,400坪の敷地に江戸から昭和にかけて建築された座敷数40の大規模な近代和風建築と趣のある池泉(ちせん)庭園がある。石谷家は、江戸期から続く日本でも5本の指に入る山林王の屋敷で、贅沢を尽くしたこの家屋に寺谷氏は目を付けた。「この屋敷は京阪神から人を呼ぶ智頭町の核になる」と。
町長に当選したばかりの平成9年7月、寺谷氏は早速、実行に移す。現に当主の住む個人所有の家屋にもかかわらず、「町のため、この家を出ていって欲しい」と自ら当主に交渉。最初、当然のことながら屋敷を町に譲る理由もなく、当主は理解しない。また、話はあっという間に町内に広がり、「町長は頭がおかしくなった」と酷評が続いた。
しかし、寺谷氏は日参を重ね、「智頭町が観光で立ち上がるためには石谷家住宅は絶対に必要」との信念をねばり強く説く一方、石谷家住宅を訪れるたびに目にする建築物のすばらしさに、一層、その信念を強くしていったという。結果、2年後の平成11年11月、5日間だけという条件での一般公開に踏み切った。短期間にもかかわらず1万人の来訪。一般公開は大成功だったばかりか、これを境に町民にも石谷家住宅のポテンシャルを改めて認識させる結果となった。
これが契機となり当主の理解にこぎ着け、平成12年1月に屋敷一切が町へ寄贈。平成13年4月からは待望の一般公開を実現することとなる。
また、これをきっかけに周辺の智頭宿全体で「町を見に来てもらおう」という意識が高まっていく。次第に、各戸の軒先には杉の葉で作った「杉玉」が飾られるようになり、住民によるガイドボランティア、清掃作業への参加など、住民が主体となった観光を支える取り組みが展開されるようになった。さらには、石谷家住宅の他にも塩屋出店、西河克己映画記念館などの歴史的建造物が続々と一般公開され、智頭宿が一体となって往時を偲ばせる古い街並みへと変貌し、今では年間5万人近くが訪れる鳥取県を代表する観光スポットへと生まれ変わったのである。

石谷家住宅(外観)

石谷家住宅(屋内)
板井原集落の保存・再生
石谷家住宅の交渉を進めるかたわらで、寺谷氏は町民も忘れ去ろうとしていた集落を観光スポットとして再生できないか、というアイデアを胸に秘めていた。智頭町中心地から北東約4kmの山間部にある板井原(いたいばら)集落。昭和40年代にほとんどの住民が町の中心へ移り、人のまばらな閑村化した集落となっていた。
『「古いもの」を活かす、大事にする』という方針の下、時代の流れにひっそりと朽ち去ろうとしていたこの板井原集落をそのまま保存しつつ、観光客を迎え入れて集落全体をエコミュージアムとして体験してもらうために整備しようという動きも平成9年に始まった。初め、寺谷氏の命でこのプロジェクトを担当することになった町役場の職員は、「何もないこの集落で町長が何をしようと考えているのか、最初はよく分からなかった。」と当時を振り返る。
しかし、寺谷氏は一見何の変哲もないこの板井原集落の魅力にいち早く気づき、早速行動に移した。日本の山村集落の原風景を残し、昭和30年代にタイムスリップしたような気分が味わえるこの集落は、『スロー』という概念を忘れかけている今の日本人にとっては貴重な存在である、と見抜いていたのである。
平成10年には長岡造形大学からの専門調査団を受け入れ、翌平成11年には、文化庁と伝統的建造物群保存地区選定のための協議を進める一方、地域住民による集落保存協議会を発足し、集落の保存のための話し合いを進めた。集落に残る住民にとっても「なぜこの集落が観光地になるのか」と最初は懐疑的であったという。しかし、寺谷氏も含め、当時の町役場の担当職員は延べ百数十回も現地に足を運び、集落保存の必要性を住民に説いて回ったという。
結果、板井原集落は、全国的にも数少ない山村集落として原形保存され、寺谷氏の狙いどおり、原風景を残した昭和30年代を思い起こさせる空間として再生された。さらには、裏山を巡る約7kmのトレッキングコースが設置され、住民ボランティアがトレッキングコースを案内するサービスも始まった。一方、板井原集落の風景にマッチした風情ある飲食店が2軒営業を開始することになる。
築百年を超える古民家をそのまま活用した郷土料理店では、囲炉裏を囲みながらかまど炊きのご飯と地の漬け物といった素朴な食事を楽しむことができる。また、Iターンで関西から移住した芸術家が開いた喫茶店は、かつては養蚕農家が使っていた民家を改装してギャラリーを開設し、来訪者と地域住民がふれ合う場になっている。交通の不便なところにもかかわらず、月に1,000杯以上のコーヒーを出すほどの繁盛ぶりで、鳥取県下で指折りの喫茶店として知られている。
集落を歩けば、この土地独特の大根「板井原大根」が軒先で天日干しにされ、その漬け物は「板井原ごうこ」として集落内で土産物として販売されている。昭和35年頃までこの土地で栽培されていた品種を復元しようと、住民が40年ぶりに復活させた幻の大根である。
昔を思い出す集落の小道の向こうには、炭焼き小屋の細い煙が揺らいでいる。これも昔の集落の生活文化を再現するために、住民が炭焼き小屋を復活させたものである
。
このように、何もないところから始まった取り組みが、何の変哲もない山村の集落を再生し、住民を取り込んで、今では年1万人以上の来訪者をもたらすようになった。

板井原集落 建物外観

板井原集落 喫茶店

板井原ごうご

板井原集落内
「日本1/0(ぜろぶんのいち)村おこし運動」
智頭町では、スイスの山岳地シャトーデーを手本に、「住民自らが計画し、地域計画を実行する」という行政と住民が一体となって地域づくりを進めるシステム「日本1/0村おこし運動」を平成9年からスタートした。この運動は、0(無)から1(有)への一歩を踏み出すプロセスこそ、自立した村おこし精神であり、「自分の町を自分で経営する」という地域経営の概念の下で展開されている。
具体的な取り組みとしては、各集落がそれぞれの特色をひとつだけ掘り起こし、村の誇り(宝)づくりを目指す。集落の生き方は行政から与えられるのではなく、自己責任、自己決定によって、個人・集落が決める。運動の柱は「情報・交流」「住民自治」「地域経営」の3つで構成されている。現在では、智頭町全89集落のうち、16集落でこの運動を取り組んでいる。 その一つの例が、新田(しんでん)集落である。

日本1/0(ぜろぶんのいち)
村おこし運動 イメージ図

日本1/0(ぜろぶんのいち)
村おこし運動 イメージ図
新田集落での都市交流事業
新田集落は、智頭町中心部から10kmほど分け入った山間部に位置する17世帯、56人の小さな集落。
寺谷氏が目指した、「自分たちのことは自分たちでする。暮らしの風景から智頭ブランドを創る。その武器は森と水と空気。武器とは誇りで、それにお互いの気持ちのつながる50人程度の集落自治を実現すること、これが地域の自立だ。」という方針を忠実に再現している。
平成4年に大阪の生協から持ち込まれた都市農村交流をきっかけに、新田住民の意識は変わった。地域の宝である人形浄瑠璃を復活させ、閉じこもりがちだった高齢者の生活が人々との出会いに満ちた生き生きとしたものへ変わっていった。
平成13年、集落全世帯を構成員とするNPO法人「新田村づくり運営委員会」が立ち上げられ、「集落自治の実現」を目標に、村の集会場を兼ねた宿泊施設「新田人形浄瑠璃の館」や飲食店「清流の里・新田」などの設置、人形浄瑠璃上演、そして農業体験などの都市交流が行われ、集落を訪れる入り込み客数は年 8,500人、年間収入は1千万円にのぼるようになった。
新田集落での取り組みも、智頭宿や板井原集落での成功に影響を受け、小さな集落でも「やればできる」という雰囲気が住民に良い刺激を与えたことによるものであるといえる。

人形浄瑠璃

新田人形浄瑠璃の館
まとめ
町の話によると、平成13年4月の石谷家住宅の一般公開まで、智頭町にはほとんど観光という取り組みがなかったとのことだが、現在ではこの小さな山間の町に年間のべ15万人近く(平成15年調べ)の観光客が訪れるまでの成功を収めている。
今後も住民主体の観光の取り組みが始まるとのことで、ますます観光地としての魅力アップが図られることとなる。
寺谷氏の発想の基本にある、「国や他の地域に頼ることなく自立した地域を目指す、『自分の町を自分で経営する』」という地域経営の概念が、花開き、そして今後も大きくなっていくものと期待される。
参考資料
・林業新知識 2004年4月号「まちが面白い、ひとが面白い」
・潮騒 2002年10月号「智頭町現地シンポ」レポート
・朝日新聞鳥取版 2003年1月4日
・国土交通省中国地方整備局中国幹線道路調査事務所ホームページ「智頭往来」