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渋川 恵男(しぶかわ ともお)

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最終更新日:2010年4月12日

会津若松商工会議所副会頭(福島県会津若松市)
渋川 恵男(しぶかわ ともお)

主な経歴

1947年
福島県生まれ
1982年
(有)渋川問屋(料亭・旅館)代表取締役
1994年
七日町通りまちなみ協議会
2001年
七日町通りまちなみ協議会会長
2001年
会津若松商工会議所副会頭
2002年
(株)まちづくり会津(TMO)代表取締役

カリスマ名称

「街並み整備によるまちなか観光のカリスマ」

選定理由

空洞化が進む中心市街地の会津若松市七日町通りに、かつての賑わいを呼び戻すため、蔵や木造商家、洋館などの既存建物を活かした街並み整備を推進するための組織化を図り、建物の修景と併せた業種転換・空き店舗の活用や、骨董市、ジャズライブ、女性による着物ウォークなどのイベントも開催。ハード・ソフト両面での誘客増加策を展開し「まちなか観光」の推進に寄与している。

具体的な取り組みの内容

シャッター通り

会津若松市は人口11万7千人の小さな城下町である。市内には、鶴ケ城や白虎隊が自刃した飯盛山などの歴史資源、周辺には磐梯山や猪苗代湖などの雄大な自然環境に恵まれ、年間約270万人の観光客が訪れる。七日町通りは、街の中心である大町四ツ角から西に延びる商店街で、藩政時代から昭和中期までは会津一の賑わいを見せる繁華街であった。しかし、近代化の波の中で、店構えも個性を失い、さらにバイパスの開通など道路事情の変化により、消費者は市街地から郊外店へと流れて行った。

中心市街地の空洞化に歩調を合わせるかのように、七日町通りも空き店舗が目立つようになり、いわゆる「シャッター通り」の様相を呈していた。通り自体が幹線道路であるため、車の通行量は多いものの、買物客はめっきり減り、ついには商店会も解散し、市商店街連合会からも脱退する状況であった。1993年(平成5年)、同氏が20数年ぶりに帰郷したのは、地元の七日町通りがどん底の状態にあえいでいたときであった。

活性化の方向性

ほとんどの商店主が、空洞化は時代の流れとあきらめていた状況のなか、同氏は、なんとか活性化の糸口を見つけようと友人たちと活動を開始した。キーポイントは交流人口である。最盛期から100万人以上落ち込んでいるとはいえ、会津若松市には年間200万人を超える観光客が訪れている。この観光客を取り込むことによって、商店街としては一度死んだも同然の七日町通りの再生を図ろうと考えたのである。
従来、商店街が相手にしていた客層、商店構成から、対象を他地域からの交流人口に求めるという方向に大きくシフトしようとするものであった。

活動開始

まず同氏が始めたのは、七日町通りの建物調査である。1993年(平成5年)夏、同氏は、当時大学生だったご子息と、後にまちなみ協議会の副会長となる庄司裕氏の3人で、真夏のさなかに800mの七日町通りを2往復し、汗だくになりながら建物の構造や外観などの種類ごとに地図を塗りつぶす作業を行った。その結果わかったことは、七日町通りには明治、大正、昭和初期の蔵や洋館、木造商家など、歴史的な建造物が数多く点在しているという事実である。

もともと会津若松市の市街地は、戊辰戦争で多くの建物が焼失し、江戸時代の建物はほとんど残っていない。明治以降の建物とは言え、七日町通りの歴史的建物は十分に資源になりうる。しかし残念なことに、これらの建物のほとんどは、トタンやアルミサッシ、新建材などで覆われており、本来の趣きを失っていたのである。

渋川氏らは、こうした覆いを取り外すことによって、比較的容易に、昔の外観を取り戻すことが可能であると考え、これらの外観を昔の風情に戻し、歴史的な建物を保存しながら、城下町らしい特色のある街並みの再生が、賑わいの創出につながるものと確信し、建物所有者たちと個別に面談をしながら、理解を求める活動を続けた。こうした活動を続けるなか、渋川氏らは旧商店会の長老達から会合に呼ばれることとなった。

「最後の挑戦」

渋川氏、庄司氏、新たに活動に加わった目黒章三郎氏(現まちなみ協議会副会長)は、当時「よそもの3人組」と呼ばれ、煙たがられていた存在でもあった。旧役員から、「君たち何かやっているようだけど、話を聞かせてくれないか」と問われ、これからの七日町のまちづくりの構想を熱っぽく語っても、反応は冷たいものであったが、そんな雰囲気の中、ある商店主がポツリと発言した。
「我々はもう年だから無理だけど、息子たちに話してみよう。まあ、これが七日町の最後の挑戦だべな」。

まちなみ協議会の設立

1994年(平成6年)3月、渋川氏らが中心となって、大正浪漫調のまちづくりをキャッチフレーズに「七日町通りまちなみ協議会」が会員数22名で設立された。「よそもの3人組」の活動開始から概ね1年が経過していた。
この協議会は商店街としての活性化のみでなく、地域コミュニティの再構築という意味もあって、区長に顧問として参画してもらうなど、町内会組織を取り込んだ点が特徴的である。

協議会の活動

組織化によって、取り組みが順調に推移したわけではなく、事業内容には賛同できても、改修工事や業種転換に伴う現実的な費用の問題をクリアしないことには計画が進んでいかないのは当然である。回収の見込みが立たなければ投資はできない。
渋川氏らが根気強く説得を続けた結果、1軒の米屋に、建物修景と業種転換を決意させるに至った。七日町下の区にあった「山寺米穀店」は、米の小売が規制緩和の影響を受けたこともあり、建物を和風の木造商家に修景するとともに、昔懐かしい駄菓子、民具、骨董品も揃えた茶屋「やまでら」に生まれ変わった。
茶屋「やまでら」建物修景と業種転換を実施
茶屋「やまでら」建物修景と業種転換を実施
なんとしても成功が必要な協議会は、七日町の活動に興味を持ってくれた地元紙の協力を得て、10回連載で話題に取り上げてもらったり、旅行雑誌への掲載など、あらゆる誘客の支援を行い、なんとか事業収支を成り立たせることに成功した。

景観協定と活動の拡大

この成功事例が呼び水となり、協議会はより積極的に取り組みを展開した。市の景観条例に基づく補助金の受け皿ともなる「観協定」の締結である。

景観協定は、地域住民が自らの地域において自主的に建物の形態や色彩、緑化など、景観形成に不可欠な要素について一定のルールをつくることにより、統一したイメージの街区を形成することを目的としたものであり、地域自らが定めたルールに基づいた修景等を行う場合に、市が定率の助成を行うものである。

協議会は、七日町通りを3つに分け、1995年(平成7年)7月に「旧七日町町並み協定」、同年9月に「七日町通り下の区町並み協定」、1996年(平成8年)9月「七日町中央まちなみ協定」をそれぞれ締結した。同氏は、この景観協定に基づく助成制度を最大限に活用するとともに、空き店舗の解消を飛躍的に推進するため、建物所有者とテナントの入居者との総合的なコーディネートを図り、修景を行う所有者にはテナント入居者を確保し、テナント入居者には希望する外観の建物を提供するといった、任意団体としての協議会活動を超える役割を演じている。

こうした取り組みの成果として、1995年(平成7年)度から2003年(15年)度末までの間に、延べ43店舗(うち13店舗については空き店舗のリニューアル)において、店舗改装や緑化、業種転換などに展開されており、特に修景や業種転換が進んでいる下の区においては、ほとんど空き店舗が見当たらなくなるまでになっている。この七日町通りの実績(43件)は、市全域での景観助成の実績(2003年度末で81件)を考えた場合、相当に突出したデータであり、いかに七日町通りの取り組みが会津若松市全体のまちづくりに、大きな影響を及ぼしているかのひとつの指標と言えよう。

ソフト事業の展開

七日町通りにおいては、こうしたハード整備の活動と併せて、各種イベント等のソフト事業にも積極的に取り組んでいる。
1997年(平成9年)からは毎年10月に、大正浪漫調の景観を活かした骨董市やきものしゃなりウォーク、ジャズライブ、バザールなどを取り入れた「七日町パラダイス」を開催し、他商店街との差別化を図っている。また2003年(平成15年)度には、かつて開催されていた盆踊りを14年ぶりに復活させたり、市民広場で野外映画を上映したり、さらにJRとの連携を図りながら「SL歓迎イベント」など、七日町通りならではの数々のイベントにも力を入れて、賑わいづくりを展開している。
毎年10月に開催する「七日町パラダイス」
毎年10月に開催する「七日町パラダイス」
七日町通りまちなみ協議会はこうしたソフト事業の展開も加えることにより、設立当初22名であった会員数が2003年(平成15年)度末には97を数えるなど、地域における協議会活動の普及に力を入れてきており、協議会自体も地域に深く浸透してきた。

TMOを活用したまちづくりの推進

自らが所属する七日町での協議会活動とは別に、同氏は全市的なまちづくり活動においても、その推進役としての重要な役を担っている。


会津若松市では、中心市街地活性化法に基づく全国初のTMOとして「株式会社まちづくり会津」が1998年(平成10年)7月に設立されているが、設立にあたって取締役の一員として中心的な役割を担い、現在は代表取締役として積極的な事業推進にあたっている。具体的には、各商店街との協働によるワークショップの開催を経て、2001年~2002年(平成13~14年)度に、若手商業者の新規創業支援を目指した「チャレンジショップ事業」を中心市街地の空き店舗で展開し、2002年(平成14年)春には、通り全体をひとつの商店として捉え、不足する業種・業態の導入等を図るテナントミックス手法を取り入れたテナントビル「アイバッセ」のオープン、さらに2002年(平成14年)秋からは、疲弊する中心市街地の駐車場問題に対応するため「まちなか駐車場」の運営を開始するなど、多岐にわたる事業を展開している。

卓越した計画実現力

同氏の最大の武器は、アイディアを実現する手段を豊富に持つことである。
世にアイディアマンは数多く存在するが、同氏の実行力、特に、市民や関係団体・機関と行政を上手にコーディネートして、計画を実現していく術に長けている。2002年(平成14年)夏には、無人駅だったJR七日町駅を、福島県などの支援を得て、JRに大正浪漫調の洋館に改修してもらい、駅内にアンテナショップ「駅カフェ」をオープンした。このアンテナショップは、会津地方28市町村で組織する「ふるさと市町村圏協議会」が運営している。

また、「アイバッセ」が立つ七日町からの脇道については、市に要請する形でインターロッキングブロック敷きによる景観舗装が施され、「七日町ローマン小路」として生まれ変わっている。こうした整備手法や運営手法に様々な異なる団体の協力を得ながら異なる制度を導入し、ひとつの形にしていく技術は極めて稀有である。

同氏の取り組みは、現在ももちろん続いており、2004年(平成16年)秋にはアイバッセに隣接する倉庫を改修し、地酒等が楽しめるショットバーや会津ブランドとして認定されたみそ、しょうゆ、絵ろうそく、民芸品などを取り扱う「会津ブランド館」がオープンされる予定であり、さらに新たな取り組みとして、中心市街地の遊休地を活用した広場整備にも着手している。

この広場は、従来のハードとしての広場整備にとどまらず、TMOが地元商店街との連携を図りながら、建物整備とテナント導入も併せて実施することにより、ハード、ソフトの両面から賑わい創出に寄与することを目的に進められているものである。

終わりに

渋川氏らが取組みを始める前(1993年:平成5年頃)の七日町通りには、通学途中の高校生以外、歩く人がほとんどおらず、観光客はおろか、買い物客すらいない状態であった。しかしながら在、観光ニーズや旅行形態の変化を背景に、会津若松市の観光客が全体として伸び悩んでいる中にあって、例外的に伸びているのが「まちなか観光」である。

七日町は、まだまだ発展途上とは言え、城下町らしい風情を随所に残した街並みと、散策や買物、飲食などの「まちなか観光」を楽しむ地域として脚光を浴びており、観光シーズンの晴れた休日ともなれば、歩道からあふれるほどの観光客で賑わっている。同氏のこれまでの取り組みは、「まちなか観光」を会津若松市観光の柱の1つに育てた功績として非常に大きい。今後はさらに、観光という枠組みを超えた総合的な地域づくりのコーディネーターとしての役割が期待されている。
七日町「駅カフェ」 無人だった駅をJRや関係団体との連携で古い洋館風に改修
七日町「駅カフェ」 無人だった駅をJRや
関係団体との連携で古い洋館風に改修
市が景観舗装を実施した「七日町ローマン小路」
市が景観舗装を実施した
「七日町ローマン小路」
2004年(平成16年)秋オープンの「会津ブランド館」
2004年(平成16年)秋オープンの
「会津ブランド館」
まちなか周遊バス「ハイカラさん」
まちなか周遊バス「ハイカラさん」
大晦日に開催する「七日町カウントダウン」
大晦日に開催する「七日町カウントダウン」
七日町ローマン小路を歩行者天国にして開催する「七日町春まつり」
七日町ローマン小路を歩行者天国
にして開催する「七日町春まつり」
あいづよさこい踊りなどを実施する「七日町夏まつり」
あいづよさこい踊りなどを実施する
「七日町夏まつり」

【参考資料】

このページに関するお問い合わせ
渋川氏ご勤務先(原則ご本人が対応)
TEL 0242-38-2822

関連情報はこちら→株式会社まちづくり会津ホームページ

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