最終更新日:2012年9月20日
前兵庫県城崎町長
株式会社西村屋 代表取締役会長
主な経歴
1945年
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兵庫県城崎町生まれ |
1967年
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慶應義塾大学文学部社会学科卒業 |
1967年
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三共生興(株) 勤務 |
1969年
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(株)西村屋 勤務 |
1976年
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(株)西村屋 代表取締役社長 就任 |
1991年
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城崎温泉旅館協同組合副理事長 |
2001年
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城崎町商工会長 |
2000年
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城崎町長に当選 就任 |
カリスマ名称
「伝統ある温泉街を常に活性化させるカリスマ」
選定理由
旅館経営者として、また町のリーダーとして、先人から受け継いだいで湯情緒あふれる町並みと共存共栄の精神を守りつつも、歴史と伝統に甘えることなく、イベント運営の改革、国際交流の促進、まちの改築、城崎ブランドの確立・発信などに積極的に取り組み、「元気な町―城崎」を常に維持している。
具体的な取り組みの内容
共存共栄のまちづくりを基本に
城崎に来た観光客は、「城崎温泉は一つの大きな旅館で…」といった説明を受けることが多い。道路は廊下で公園は庭、各旅館は部屋であるというこの発想は、外湯を中心に発展してきた城崎の象徴であり、「共存共栄」と呼ばれるまちづくりの源流となっている。
1956年10月に旅館に温泉が配湯されるまで、城崎温泉の入浴施設は6箇所に設置された外湯だけであった。宿泊客は入浴のため外湯に出かけ、その道すがら、土産を求め、遊技に興じ、小腹を癒す。つまり、お店や施設が有機的に結合しながらも、それぞれの役割を分担し、民家を含めたあらゆる業種が渾然一体となって初めて城崎温泉が確立されていたのである。
このことは、まちが小さくまとまっており、総じて旅館の規模が小さい城崎だからこそ成し得たことかもしれないが、各旅館に内湯が設けられた今日においても脈々と生き続けており、多くの温泉観光地が地盤沈下する中で、入込客数100万人台をキープし、比較的優位を保っている大きな要素である。(平成14年の入込客数は106万人。バブル期の平成3年の118万人という数字には及ばないが、崩壊直後の平成6年99万人から持ち直している。)
各旅館に設置されている内湯は、旅館の収容能力に応じて浴槽の大きさを制限されている。また、多くの旅館では売店や喫茶コーナーを設置していない。これらは、旅館は宿泊の場であり、それぞれの機能は温泉街に分散するそれぞれの施設で享受して下さいという、城崎独特の「共存共栄」の精神が今に脈々と受け継がれているからである。若くから城崎温泉旅館協同組合の役員を歴任した西村氏は、この精神を受け継ぎ、これを発展させている。
守る景観から育てる景観へ ~大谿(おおたに)川の清掃

外湯に行き交うゆかた姿の入浴客
現在の城崎温泉の町並みは、大正14年に勃発した北但大震災からの復興の中で確立されたもので、今日のモータリゼーションの普及に対応し切れていないという課題はあるものの、既に都市計画の完成の域に達した景観である。
しかしながら、生活環境の変化に伴い大谿川は徐々に汚れ、志賀直哉が小説の舞台とした城崎の面影が徐々に悪化してきたが、まちを挙げた取組みは遅れていた。西村氏は、商工会長として、城崎温泉街の中央を流れる大谿川の清掃を目的とした「大谿川クリーンスタッフ事業」、再びホタルの住む大谿川とするための「ホタル再生事業」など川を身近に感じられる事業を提案し、小・中学生から地域ボランティアまでを巻込んだ「景観を育てる取組み」へと発展させた。
国際交流の促進~城崎国際交流協会の設立・活動

ホタル再生プロジェクト
国際化の波をいち早くキャッチした西村氏は、1990年には「城崎国際交流協会」を設立して初代会長に就任。城崎温泉を訪れる外国人観光客に対する通訳ボランティア、英字パンフレットの作成、青少年の海外派遣、JETプログラムやホームステイで但馬地域に居住する在日外国人との交流機会の創出等々、志を同じくする町民とともにNPOの先駆的役割を果した。
イベント組織の一本化 ~K’Sの設立
観光地城崎は、商工会、観光協会、旅館組合、そして町行政が、それぞれの立場で独自にイベントを展開していたため、開催時期や内容が重複し、運営側も参加者も力が分散するという悪循環を繰返していた。そこで西村氏は、イベントを企画・運営する20代~30代の若者の力を一つに結集するため、商工会青年部、城崎文化フェスタ、旅館組合2世会、城崎温泉湯煙り太鼓の4大グループを一本化すべく、新しい組織の立上げに奔走した。
K’Sと命名された新しい組織の旗揚は1998年に実現した。以来、K’Sはイベントの企画・運営に統一的に携わり、将来の城崎を担う若者の力の結集は、視野の拡大、資質の向上、結束の強化、ひいては城崎の伝統である「共存共栄」の醸成にも波及した。そしてその活動は「ゆかたの似合う城崎温泉」という、今日のまちづくりのコンセプトにもなった。このような元気な町城崎を支える組織の礎を構築したのは、西村氏の努力の賜である。

「ゆかたの似合うまち 城崎温泉」
(パンフレットの写真)
西村氏は更に、これまで比較的表舞台に出ることの少なかった女性に焦点をあて、「きのさき温泉YOSAKOIまつり」を企画。4回目を迎えた2003年は、参加者も40チーム800人を数え、城崎の初夏を彩る風物詩として定着している。
城崎温泉夢プログラムの取りまとめと実行

きのさき温泉YOSAKOIまつり
「一度は訪れたい温泉地」、「何度も行きたくなる温泉地」を合言葉に、城崎をより魅力ある温泉地に生まれ変らせるため、町内に居住する異業種の面々21人が集い(「きのさき温泉夢会議21」)、『城崎温泉夢プログラム~温泉王国きのさきの明日を目指す10の提言~』をまとめた。
西村氏は、座長としてプログラムの取りまとめに当たったが、先人から受け継いだ「いで湯情緒あふれる町並み」と「共存共栄の精神」を念頭に置き、愛すべきまち城崎を「元気な町-城崎」にするためのプログラムにすることに心血を注いだ。具体的には、外湯の魅力アップと個性化、楽しく安全に散策できる城崎温泉の確立を目指し、「温泉街を俯瞰するロープウェイ山頂に露天風呂を設置する」、「外湯めぐりの魅力をアップするため、随所に足湯を設置し、空店舗を観光施設に整備する」、「既存の施設の有効利用による集客力アップと未活用資源の掘り起しによる新しい城崎の顔となる空間を創設する」など10の提言を行った。
その後、町長となった西村氏が、さっそく10の提言の中の『東山公園を人々の集う公園にする』など2つの提言を実施し、町並みの保全と商店街の活性化を図る『中心市街地活性化基本計画の策定』など5つの提言に着手したことは言うまでもない。
さらに、日本の原風景とも言える懐かしい温泉情緒を残した「温泉王国・城崎」の再興をはかるべく、7つの外湯を個性的で魅力あるものにリニューアルするとともに、温泉街の随所に足湯や飲泉場を整備するなど、線としての外湯めぐりを面的に充実するべくまちの改築にとりかかっている。 この西村氏の姿勢は、町長に就任して以来のモットーである「明るく元気に前向きに」~開かれた責任ある町政~を実践するものに他ならない。
城崎このさき100年計画の策定に着手
1925年5月、北但大震災(マグニチュード7.0)によって壊滅的な被害を受けた城崎の復興の陣頭指揮にあたった当時の町長は、早稲田大学に支援を求め見事に現在の町並みを形成した。2003年6月、西村氏は、再び早稲田大学の協力を受けながら、住民を主人公とする「城崎このさき100年計画」の策定に着手した。 その第一弾として早稲田大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)の建築・都市デザインを専攻する大学院生によるデザインワークショップを開催するなど新たなまちづくりに取り組んでいる。

早稲田大学とMITによるデザインワークショップ
城崎ブランドの発信~自らも歩く広告塔に
城崎温泉という全国ブランドを持ち、年間100万人を超える観光客が訪れる湯の里城崎ではあるが、西村氏はそれに甘んじることはない。JR城崎駅の名称を「城崎温泉駅」に変更する提案。東海・関東マーケットへの観光客誘致による城崎温泉の全国発信。浴衣の女性を使った旧態依然とした従来型の観光ポスターを、将来の城崎を担う旅館の「若旦那衆」を起用したインパクトのあるポスターに一新。西村氏は、「城崎温泉」のブランドを確固たるものとするため、あらゆる手段を用いて城崎の露出や情報発信に努めている。
また、フィルムコミッションの開設にも奔走している。 西村氏は、張りのある声と何事にも前向きな性格で、観光キャラバンの先頭に立って城崎をPRし、首都圏における観光情報交換会では自らコメンテーターを努めている。また、行政・経済団体・観光業界など多方面の招きに応じ観光地城崎を紹介するなど、「個人の名声よりも城崎のPR」を第一に、歩く広告塔として今日も全国を飛回っている。

観光ポスターに「若旦那」登場

情緒溢れる城崎温泉の町並み
西村屋ホテル招月庭 (原則ご本人が対応)
電話 0796-32-3535
FAX 0796-32-4457
関連情報はこちら→
城崎温泉観光協会のホームページ