最終更新日:2012年9月13日
財団法人 利賀ふるさと財団 前理事長
主な経歴
1948年 |
利賀村生まれ |
1990年 |
国際山村文化体験村事務局長 |
1948年 |
世界そば博覧会事務局次長 兼務 |
1976年 |
産業課長 |
1991年 |
企画文化課長 |
1994年 |
参事 総務企画課長 |
カリスマ名称
「そばによる国際交流とむらおこしのカリスマ」
選定理由
観光資源の乏しかった過疎の村においていち早く都市農村交流に取り組み、「そば」によるむらおこしとそばの原産地であるネパール王国ツクチェ村との交流を通じて独創的な観光資源づくりを行い、自らも自宅の一部を改造した玩具博物館を開設するなど、村の活性化と観光振興に大きく貢献している。
具体的な取り組みの内容
昭和51(1976)年、東京で演劇活動をしていた早稲田小劇場(現SCOT)の主宰者である鈴木忠志氏が、利賀村の合掌家屋を活動拠点と定めた。以後毎年公演を行って全国各地からファンを集めていたが、昭和57(1982)年の夏には『利賀フェスティバル'82~第1回世界演劇祭in富山』を開催した。このとき、世界各国の演劇人が利賀村に集い、利賀村から一流の演劇が世界に発信された。そして何よりも、国内はもとより世界各国からあわせて1万3000 人もの観光客が訪れ、利賀村にとって空前のイベントとなったのである。
中谷氏は、利賀村の職員としてこの世界演劇祭の担当をしたことをきっかけに、小さな山村から世界に通じるものを作ることができることを確信した。また同時に、豪雪に覆われる冬にも何かできないかと考え始めた。
「利賀そば祭り」の開催
中谷氏は、村内各集落で行われていた「ごんべ」と呼ばれるそば会に着目した。出稼ぎから帰ってきた人や遠来の客をもてなすために、そばを打ち、山菜を並べる、村民の心づくしの宴である。集落によっては有志による雪祭りを同時開催していたところもあった。中谷氏は、これらを一つに結集し、そばも雪も大いに楽しめるようにスケールアップした「利賀そば祭り」を考案した。
当初は反対論が多かった。「ひとたび吹雪になれば、猫の子一匹出てこない。行政が危険を冒してまでやっていいのか」。しかし中谷氏は、世界演劇祭の成功の経験から、本物を出せば必ず人は来ると説き、何とか開催にこぎつけた。中谷氏は開催に当たって様々なアイデアと工夫を凝らした。道路脇の雪の壁には数千もの小さなかまくらを掘りローソクを灯すなど幻想的な世界のエントランスを演出し、村民総参加で造り上げた雪像をライトアップするなど、新しい手法、奇抜な手法を取り入れた。
その結果、昭和60年2月に開催された第1回の祭りには、予想をはるかに上回る5,000人もの観光客が訪れ、用意していたそばもあっという間になくなってしまうほどの大盛況となった。このそば祭りの成功により村民は大きな自信を持ち、「そば」で利賀村の村おこしを行うことに誰もが理解を示したのである。現在では3日間の開催で25,000人もの観光客を集める北陸最大の冬のイベントに成長している。

そば祭り風景
そばの郷オープン
中谷氏は、予想以上に成功したそば祭りを見て、そばを通年観光の目玉にしようと、「そば博物館」作りを計画し、当時の野原啓蔵村長に打ち明けた。野原村長もまたそば祭りの成功は中谷氏の先見性にあると評価していたことから、このアイデアを採用し、翌年1月に全国初の「日本そば博物館」の建設構想を村内に発表した。
さっそく中谷氏は展示内容を考え始めたが、目玉となる展示をどうするかで悩んでいた。中谷氏は、信州大学農学部でそば博士と呼ばれている氏原暉男教授の研究室を訪ね指導を仰ぐと、氏原教授は「世界のそばの原産地の一つでネパールに紅いそばの咲く村がある」という話をした。
そこで中谷氏は、ネパールに出張する氏原教授に、そばにまつわる民具などを集めてもらえないか依頼したところ、帰国した氏原教授は、140点もの民具に加えて、友好村提携の話まで土産に持ち帰ってきた。さっそく中谷氏は村から友好調査団の派遣を検討。スピーディーな行動で、当時の宮崎道正村長を団長とする友好調査団が派遣され、そばの原産地のひとつであるネパール王国・ツクチェ村を訪問し、友好村の提携調印を果たした。
かくして、そば博物館構想は、目玉となるネパールからの資料を展示したそばの資料館、そば打ち体験館、そば屋などの複合施設である「そばの郷」が平成2年にオープンするという形で結実した。現在では温泉施設も整備され、利賀村の体験型・滞在型ツーリズムの核として、年間約3万人の観光客で賑わっている。
瞑想の郷づくり
その後中谷氏はネパール王国・ツクチェ村を訪れること十数回に及び、そばをきっかけにしたさまざまな交流を深めていった。ツクチェ村は曼荼羅を配した寺院があるチベット仏教の信仰の深い村で、中谷氏は始めて訪れた時その曼荼羅の美しさに惹かれ、また、その曼荼羅を見る自分の心がすこしづつリフレッシュされていくのに気づいた。
中谷氏は、これをきっかけに、現代社会の一番大事な「癒し」を得るために曼荼羅を展示した施設を山村につくることを計画し、都市住民が心身リフレッシュできるための『瞑想の郷』づくりを提案した。村では、村おこしの新たな展開として、国際交流にも資する中谷氏の提案を受け入れた『瞑想の郷』建設に着手した。曼荼羅はツクチェ村出身の絵師を招いて描いてもらうこととなり、その結果1年の製作期間を経て、4メートル四方の大曼陀羅ができあがった。
『瞑想の郷』は平成3年にオープンし、中谷氏は『瞑想の郷』を管理運営する国際山村文化体験村事務局の事務局長として、いっそう観光と世界交流に打ち込むこととなった。 現在では、『瞑想の郷』はネパール文化の発信施設として年間1万人を超える観光客が訪れ、村の観光施設の顔となっている。

瞑想の郷

瞑想の郷の花曼陀羅
世界そば博覧会の開催
中谷氏は、「そば」によるむらおこしを実践するためには、「そばの利賀」というブランドの定着が必要と考え、これまでの活動で培った有識者、そば打ち名人らとのネットワークから、そば談議等を随時開催し、さらなる人脈づくりに励んでいた。
折しも、富山県が初めて開催する地方博覧会「ジャパンエキスポ富山」の話が持ち上がり、県下の各市町村にも協賛イベントの開催等の協力が求められたことを機に、中谷氏は、利賀村ではそば博覧会の開催を提唱した。どうせ開催するなら世界そば博覧会にしようと中谷氏は意気込んだ。ところが、村役場の中では、各地の地方博が軒並み失敗に終わった状況下で、そばの博覧会など考えられない、と慎重論が相次いだ。中谷氏は何度も企画書を練り直し、粘り強く説得を続け、ついに宮崎村長の開催決定の判断を得た。
中谷氏は博覧会準備室次長として、さっそく企画を実行に移した。外国から「そば料理」の出展にフランスをはじめとする7カ国の招待、更にバザール等の営業にギリシャをはじめ8カ国が営業参加をしてくれた。また、中谷氏自ら全国各地をかけ周り、協力依頼、出演・出展依頼などに奔走した結果、38市町村の参加協力を得た。さらには運営スタッフとして全国から148名の助っ人隊を採用することに成功した。
こうして準備を整え、平成4(1992)年8月、世界そば博覧会が開幕した。開催日数は実に31日間に及び、世界演劇祭やそば祭りをはるかに超える大きなスケールのイベントとなった。その結果参加者は13万6500人に達し、大盛況のうちに終えることができた。さらに中谷氏は、博覧会を契機に、そばでつながる地域、団体などが連携を持ってそば文化を継承、発展させていく組織「全国麺類文化地域間交流推進協議会」を立ち上げ、本部事務局を利賀村に設置し、自ら事務局長に就任した。協議会では、そば博覧会を各地持ち回りで開催するようになったほか、素人そば打ち段位認定制度を独自に創設。現在では60団体を超える会員と1,200人を超えるそば打ち段位取得者を抱えるに至っている。
利賀・ツクチェ村おこし交流展inネパールの開催
そばをきっかけにしたネパール王国ツクチェ村との交流が続く中、日本国とネパール王国の国交樹立40周年に合わせ、平成8(1996)年3月にネパール王国の首都カトマンズにおいて「利賀・ツクチェ村おこし交流展inネパール」を開催した。 この交流展には利賀・ツクチェ両村から各100名の村民が参加し、2日間にわたり、ネパール王国副首相・在ネパール日本大使らの出席のもと、記念式典及びシンポジウムを開催した。
ちなみに、この交流展にはもう一つ目的があって、ツクチェ村が村内を流れるカリ・ガンダキ川による侵食にあい、毎年のように耕地が狭められ転居を余儀なくされていたことから、日本・ネパール両国政府へ協力を求めることとしたものである。これについては、席上、在ネパール日本大使が援助を約束することで実現した。 中谷氏はこのようなイベントでも、企画・運営・渉外など中心的な役割を果たしている。
「郷土玩具美術館」開館
中谷氏は若い頃から林業を営む父の影響を受けて、木を使った工作、からくりに興味を持ち始め、自宅そばにキツツキ工房を設立し、二十代半ばにからくり仕掛けの木挽人形などを制作、発表している。作品の郷土玩具は、木のやさしさ、手づくりのぬくもりを感じる都市住民に取り入れられている。
また、中谷氏は絵本画家・金沢佑光氏に出会い、本格的な木による郷土玩具の世界に目覚め、郷土玩具制作のかたわら全国から木の玩具を収集している。収集した郷土玩具や古いおもちゃなどは、自宅の一部を改造して開設した「郷土玩具美術館」に展示するようにした。現在では年間6,000人を超える観光客が訪れ、村の観光名所の一つとなっている。
次の仕掛けを
中谷氏の数々の取り組みもあって、昭和50年には10万人であった利賀村への入り込み観光客は、現在では4倍の40万人までになっている。利賀そば祭りもすっかり定着したイベントとなり、ここ数年は祭りに来訪する観光客の数も2万人台で安定するようになってきた。
中谷氏は感激しつつも、決してそれに満足していない。むしろ、果たしてこのままでいいのか、慣れと緩みすら感じ始めているという。中谷氏はどん欲に、村おこしのための次の新しい仕掛けを模索し続けている。

平蔵
中谷氏ご勤務先(原則ご本人が対応)
電話 0763-68-2149
関連情報はこちら→利賀村のホームページ