
最終更新日:2010年4月12日
1945年 |
岐阜県吉城郡古川町生まれ |
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1963年 |
岐阜県立吉城高校卒業 |
1967年 |
明治大学政経学部経済学科卒業、村坂印刷店入社 |
1983年 |
飛騨古川青年会議所理事長就任 |
1990年 |
「木の国ふるさとづくりの会」設立、(有)村坂印刷代表取締役社長就任 |
1992年 |
「木の国ふるさとづくりの会」会長就任 |
1996年 |
古川町観光協会会長就任 |
1999年 |
2002年W杯練習地ルーマニアチーム誘致研究委員会委員長 |
2002年 |
古川町市町村合併問題研究会座長、古川町観光協会会長退任、相談役就任 |
(1)青年会議所の設立(1972)
村坂氏は、1967年に家業を継ぐため古川に戻ると、経済・社会の急激な変化に町が対応していけないのではないかという不安にかられた。このため、有志とともに、全国に通用するまちづくりの仲間づくり・リーダー養成を目的として青年会議所の設立活動を行ったのである(1972年10月に青年会議所を設立)。 1975年には、青年会議所の青少年開発委員長として「自然とともに人間性の回復を」をテーマに野外教育 等を推進するなど、ふるさと、自然だけでなく「ひとづくり」を大切にするまちづくり活動のリーダーとして頭角を現し始めた。
(2)まちづくりのリーダーの誕生(1979-81)
村坂氏の「ひとづくり」のまちづくりは、青年会議所の社会開発委員長として取り組んだVTR『ふるさとに愛と誇りを』の製作活動により、町民に浸透を始めた。このVTRは、ふるさとを見つめ直すことから始まり、明るい豊かな地域社会を模索するまでの内容で、自主的に「まちづくり」に参加する「目覚めた町民」を掘り起こすための手段として製作されたのである。
この作品の製作に関わった会員が、その後の「まちづくり」のリーダーとして、「まちづくり」の理解者として、各種団体のなかで相互理解と協調体制を築き、行動を起こしていく原動力となったのである。
(1)行動力・発想力あふれる協会への転換(1983)
観光協会は、青年会議所の積極的な取組みに鑑み、1983年に抜本的機構改革を行った。それは、理事の若返りを図るため「会長選出一般理事」を設け、業種、年齢、性別を問わず行動力、発想力、積極性等を基準に町内から理事を選出することとした。これにより、青年会議所OBや現役会員、やる気ある若者が理事となり、協会の推進力となったのである。(2)町並景観デザイン賞の開始(1985)
飛騨古川は、ほかの町のように建替えのたびに国籍不明な建物が増えていくことはなく、建替えのたびに町並みが良くなっていくのである。これは、建替えのたびに、住民が「そうばくずし(相場崩し)」を避け、飛騨の匠が飛騨風様式の建築を競っていたからである。(3)古川町将来構想の答申(1988)
観光協会は、1987年に町長から「古川町将来構想」の諮問を受けた。そこで観光協会は、青年会議所の会員を取り込んだ30名にて1年をかけて研究し、報告書「この一冊が未来を開く」の作成を以って答申した。