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河合 進(かわい すすむ)

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最終更新日:2010年4月12日

群馬県みなかみ町土地開発公社理事長(群馬県みなかみ町)
(元新治村助役)
河合 進(かわい すすむ)

主な経歴

1942年1月
群馬県新治村生まれ
1961年4月
新治村勤務
2001年3月
新治村退職
2001年4月
新治村助役就任

カリスマ名称

村民と観光客が共に喜ぶ観光地づくりのカリスマ  

選定理由

景観、歴史、文化など農村のもつ潜在的な観光魅力に着目し、都会からの観光客とのふれあい・交流に村民が積極的に参加することにより観光振興と地域活性化を促進するという独特の「たくみの里」構想などを推進することにより、村民も観光客も喜ぶ観光地づくりに成功した。

具体的な取り組みの内容

新治村の歴史

新治村は、群馬県北東地域、新潟県境に隣接した場所に位置し、その総面積の約80%が山林で、そのほとんどが上信越高原国立公園に属し、県境の高い峰々とそこから連なる里山、田畑と、美しい田舎の風景が広がる村である。

また、この地はその昔、江戸と越後を結ぶ要路として栄えた三国街道沿いに発達した村でもあり、江戸時代を通じて街道にかかわる宿泊や運送業が主な産業であったが、明治に入り国鉄信越線が開通したため街道としての機能は衰退し、以降は養蚕を中心とした稲作、畜産、野菜等の農業が主産業となった。

また、昭和30年代に入ると村の中央にダムが建設され、かつての湯治場である猿ヶ京温泉は湖底に沈み、観光産業は衰退するかに思われた。ところが、移転先のダム湖畔の台地でも温泉が掘削されたため、新しい猿ヶ京温泉として開発が始まり、大型のホテル・旅館が建設され収容人数も格段に向上されたため、それに付随する土産店や飲食店等が開店し、大いに賑わいその結果、観光産業が大きく発展し、農業と並び村の基幹産業となった。

昭和50年代に入ると、新幹線や高速道路等の交通網の発達により首都圏から2時間足らずで来村出来るようになり、観光客は一時大幅に増加したが、その後団体観光から個人観光へのニーズの変化などにより低迷傾向となった。主産業の農業も、若者の都会への流出が続き年配者がかろうじて続けているという状況になり、村の活力が失われている状況にあった。
新治村全景 
新治村全景 

地域観光振興への取組み

河合氏は、高度経済成長時代の昭和36年、高等学校を卒業と同時に新治村役場に採用され、以来40年間、公務員として職務に精励し、その大半の35年間を企画や観光の実務の担当者として自ら第一線で活躍し、地域づくり、観光振興に尽力した。

特に、村への宿泊者数が昭和54年をピークに減少に転じ観光に翳りが見え始めた際には、率先して各地区のリーダーと、毎日毎晩議論を交わした。その結果、景観・歴史・文化など新治村のもつ潜在的な観光魅力を活かした地域づくりが必要であるとの考えに至った。

そこで、まず、村の中心部に位置する「須川宿」を中心に多く点在している「野仏」などの歴史的な文化遺産を観光資源として活用することを考えて、野仏などを探しながら1周8.5kmの田園散策をする「野仏めぐり」を始めた。

これには都会から年間3~4万人の観光客が参加するなど好評を得たが、課題も多く残った。「農作業をしている場で突然観光客に話かけられた」「農道に乗用車が入ってきた」「心ない人が山野草を持ち去る」等地域の人々側の不満や、「トイレがない」「休憩施設がない」等都会の観光客側の指摘があったのである。

河合氏は、これらの不満や指摘を得たことで、観光振興には美しい田園風景があるだけではだめで、村民の理解や協力と、必要最低限の施設整備が必要であることをかえって確信した。
須川宿
須川宿
須川宿資料館
須川宿資料館

「たくみの里」構想

河合氏は、村民の理解や協力を得るためには、村民が積極的に参加できるような仕組みが必要だと考えた。高齢化が進む村に活力を取り戻すには、都会からやって来る観光客と、村民が直接ふれあい、交流するようにしなければならない。

そのとき河合氏が着目したのが、新治村で普通に行われていた伝統的な手工芸や地場の材料を使用した食作りだった。わら細工、木工、竹細工、また味噌作り、こんにゃく作り、豆腐作りといった、田舎ではよく見られる作業も、都会の人は知らないのではないか。そうであれば、手工芸や食作りを村民の指導により体験できる仕組みを作ればいいのではないか。そのために、体験できる施設を整備する必要もある。

そこで、河合氏は、構想実現のために村長はじめ関係者の説得、村民との議論を重ねた。また県にも財政的な支援を訴えた。県との度重なる協議の結果、できる限りの支援をするが、観光という観点の支援策は少ないため、一般的な地域振興という形での支援を行うという約束を取り付けることに成功した。
このことを踏まえ、河合氏は、一連の事業のコンセプトを、

[1]美しい農村づくり
[2]歴史や伝統文化を活用した農村づくり
[3]地域の人を活用した地域づくり
[4]体験を主体にした都市との交流

の四つとして、事業名を「たくみの里づくり」として取り組むこととし、具体的な実施計画の策定に着手した。

その際、村民と都会の観光客とのふれあい・体験ができる施設、「たくみの家」については、細かい基準はあまり設定しないこととした。決めたのは、景観に配慮するため建築様式は「養蚕農家をモチーフとした田舎風、木造瓦葺き」とすること、交流と体験ができるようにすること、村内4集落の各中心地に置くようにすること、といったことである。

このような「たくみの家」を中心とした「たくみの里」実施計画を昭和59年に策定し、翌年にはさっそく「木工の家」、「竹細工の家」を建設。その翌年には「陶芸の家」、「手作り郷土の香りの家」(こんにゃく作り体験のできる家)を建設、さらに翌年には「わら細工の家」を建設した。この5軒で「たくみの里」がスタートしたのである。

「たくみの里」の運営は、それぞれの「たくみの家」で独立会計とした。村役場が運営するとなると、結局は村の予算で赤字を埋めるなど責任があいまいになり、積極的な観光客誘致につながらない、むしろ各「たくみの家」で個性ある活動を競わせることによって活性化するという考え方からである。とはいえ、立ち上がりの段階では、各「たくみの家」で体験指導をする村民=職人に対して補助金は拠出することとした。

また、河合氏は、「たくみの家」だけでなく、周辺整備にも心を配った。沿道の擬木の花壇、トイレもあり中心施設となる資料館、地元の産品を販売する朝市屋台、さらには無料の駐車場、駐輪場も整備した。「野仏めぐり」での経験が大いに活用されたのである。
街並み
街並み
案内看板
案内看板

「たくみの里」から「農村公園構想」への展開

「たくみの里」は、都会の人々の心を捉えることに成功した。初年度となる昭和62年度にはいきなり9万人の来客があったのである。同年には早々に竹細工の家を増築し、翌年には駐車場を拡張。その後も毎年のように増築や新しい「たくみの家」の構築が続いた。来客数も飛躍的に増加し、翌昭和63年度は11万人と早くも10万人を突破。さらに平成2年度には早くも20万人の大台に乗せた。

初めは半信半疑だった村民たちも、熱心に指導を受ける都会の観光客の姿を見て、だんだん積極的に参加するようになった。平成2年には地元の食材を100%使用したレストランが村民の手によって営業開始。「たくみの家」も、村や県の金を使わず完全に村民の手によるものが立つようになった。また、農業を続けている村民にも、「たくみの家」やレストランなどに提供する農産物を増産して所得の向上を図ろうという姿勢が見られるようになった

河合氏の努力の結果こうした状況が生まれたことにより、新治村は農業と観光を連携させ都市と農村の交流による村づくりの指針として、村内全域を対象にした「農村公園構想」を策定し、村づくりを進めることになった。これは、村内各地域ごとに例えばスポーツ、フルーツ、温泉、森林などといったテーマを定め、それぞれの地域がテーマに沿った開発整備を行うというものである。そして河合氏の提案によりこの構想とセットとなるものとして、乱開発を防ぎ、新治村の本来の農村景観という最大の観光資源を守るため、新治村は平成2年3月「美しい新治の風景を守り育てる条例」を制定した。

さらに村は、この構想を推進するための主体として、財団法人「新治村農村公園公社」を村100%の出資により設立した。公社を通じて、農畜産物処理加工施設や農業体験施設、農産物直売所の整備・運営を行っている。また、公社は「たくみの里」構想の中心にも据えることとし、各「たくみの家」の職人と公社とで「新治たくみの会」を組織し、定期的に情報交換やイベント企画などを行っている。河合氏の取組によってスタートした野仏めぐりやたくみの里づくりは、村づくりの大きな柱である「農村公園構想」の核となるものであり、現在は地域と行政、そして観光業が一体となって都市との交流を展開し、農業及び観光業の振興に大きな効果を上げている。
 

今後の取組み

豊楽館
豊楽館
河合氏が中心となって取り組んできた結果、「たくみの里」を通じて村全体に活気が生まれ、村民も観光客も共に喜ぶ観光地づくりに成功したと言える。実際に、「たくみの里」には年間50万人弱の観光客が訪れるようになっている。
また、現在、「たくみの里」には、総合案内施設である「豊楽館」を含めて25軒の「たくみの家」があるが、このうち純粋に民間によって整備されたものは17軒に上る。当初各職人に出していた補助金も今はなく、どの「たくみの家」も完全に独立採算で運営できるまでになった。
ただ、観光入込数はその年の天候によって左右されることは否めないので、年間を通じて安定した集客を確保するために、観光客のニーズの把握や更なる美しい農村の維持に努めることが重要な課題となっており、そのためにも、村民との連携が必要不可欠であることを河合氏は痛感している。

河合氏は、平成13年3月に村を定年退職したが、河合氏の地域振興に対するたゆまぬ努力が認められ、同年4月から助役として、河合氏が永年培ってきた知識と経験を活かして、村の発展のため再び先頭に立って活動している。
新治村ガイドブック
新治村ガイドブック

参考資料

月刊「観光」2001年5月号 No.415((社)日本観光協会)
このページに関するお問い合わせ
河合氏ご自宅(原則ご本人が対応)
電話 0278-64-0063

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