最終更新日:2012年9月13日
元 南房総市企画部長(千葉県南房総市)
主な経歴
1950年
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千葉県生まれ |
1969年
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富浦町役場 |
1991年
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富浦町観光・企画課長 |
1992年
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富浦町枇杷倶楽部所長
(株)とみうら取締役 |
2003年
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富浦町総務課長 |
カリスマ名称
選定理由
「道の駅とみうら・枇杷倶楽部」の初代駅長として、計画の立案から、開設後の運営管理に取り組み、特産の枇杷を活用した商品開発や、集客資源を広域的に束ねて誘客する「一括受発注システム」を稼働させ、地域経済を拡大させるとともに道の駅運営法人の黒字経営を持続させた。また、人形劇などの地域文化の磨き出し、インターネットを活用した広域情報の発信による地場産業振興など、多角的な手法で広域的な地域振興にも努めた。
具体的な取り組みの内容
「産業と文化の振興拠点、情報の発信基地」道の駅・枇杷倶楽部の建設
富浦町は房総半島の南西端に近い人口5,700人、面積25.69k㎡の小さな過疎の町で、特産は、天皇陛下に献上される房州枇杷や花卉など温暖な気候を活かした農産物である。大きな観光施設は無いが風光は明媚で、東京湾に面した砂浜は海水浴客で賑わい、また避寒の観光地として知られていた。
しかし、農産物の輸入自由化、さらにバブル経済の破綻で、基幹産業である観光や農業、漁業の衰退に拍車がかかり、少子高齢化の進展による過疎化も深刻化し、持続的な雇用と経済効果をもたらす活性化事業の展開が叫ばれたが、町には大規模な観光施設を整備していく体力はなかった。
地域振興策の模索が続いていた1980年代前半(昭和50年代後半)、東京湾アクアラインや東関東自動車道館山線の整備計画が発表されたこともあり、町長の「座して衰退を待つのではなく、一気果敢に打って出る」との決断により、 1990年(平成2年)、富浦町に「産業振興プロジェクトチーム」が設立された。
同氏はその指揮をとり、商工会や農業団体、観光団体との協議を重ねた。1991年(平成3年)、地域の資源を活用し広域的な産業と文化、情報化の振興拠点となりうる施設整備の事業化が決定となり、1993年(平成5年)11月、千葉県で初の「道の駅とみうら・枇杷倶楽部」がオープンし、運営母体として町が全額出資した「(株)とみうら」も発足した。同氏は初代所長となり、混沌とした時期に、あえて、町が取り組んだことのない事業の現場責任者となった。

産業、文化、情報の振興拠点 枇杷倶楽部
「エコ・ミュージアムの手法による地域活性化
富浦町のような中小規模の財政力が弱く体力のない町では、集客力の強い大規模施設の建設はできず、運営法人の赤字を補填する力もない。「第3セクターの赤字は、地域を疲弊させる」ことにもなる。また、拠点開発ではなく、町全域での事業効果も求められた。こうした厳しい条件の中、施設整備を最小限で、ソフトで地域全域での活性化を図ることを進めていった。
このため、事業地域に点在する集客につながる資源や事業を結びつけ、面として活用して観光客の誘致を進めてゆく必要があることから、フランスの自然公園地域での活性化手法である「エコ・ミュージアム」をいち早く研究し、町活性化の手法として導入を図った。
エコ・ミュージアムは「生活環境博物館」と訳されているが、資源の「保存・育成・展示・研究」という機能ももっている。地域を支える産業の健全化を図ること(保存)、新しい取り組みを育てていくインキュベーションであること(育成・研究)、また個性的な文化づくりをしていくこと(展示・活用)といった手法であるが、これを観光振興として、また過疎地域の地域振興策に置き換え、さらに「分散配置資源(事業)の統合理論」として取り入れたのである。
「活きた捨石」となる振興拠点
産業・文化・情報の振興に真に寄与し、運営体を自活させて雇用を創出し、さらに大きな地域の礎に進化する「活きた捨石」となるよう願いを込めてスタートさせた枇杷倶楽部は、地域の誇りである枇杷や花などの資源を活用し広域で連携した集客システムをつくり、都市との交流を進め、観光農業のための品種改良や受け入れシステムの構築、特産の枇杷を活用した商品開発、文化事業による人材育成や情報化による地域振興など、ソフト面での充実も図った。また富浦町をはじめとする周辺地域の創意工夫を促進し、自己完結せずに周辺地域に事業や経済効果が広がる、公正で力強いインキュベーションであることに努めた。
観光農業の振興
枇杷倶楽部のオープンとともに、集客装置と試験研究の機能をもった花摘み園、苺園、枇杷園などの整備も進めた。温暖な気候に着目し、冬から早春にかけての花摘みの観光化や富浦町では栽培していなかった苺栽培の導入を図り、それまで夏季型であった観光シーズンから、「冬・春の観光シーズン化」も実現させ周年型へと移行させた。

観光農業への取り組み 枇杷狩り
特に1993年(平成5年)、道の駅と同時にオープンさせた観光花摘み園「花倶楽部」は、後継者不足で悩む地域の耕作放棄地の有効活用と、周辺農家の農産物の直売所として大きな効果をもたらした。また、農場に農業技術者2名を配置し、直売に適した品種の改良や観光農業に対応した作付け体系の試験研究も併せて実施し、成果を地域に提供するシステムも構築した。

観光産業の拠点 花倶楽部
また、特産品である枇杷の出荷規格外品を活用して商品開発をする加工事業にも取り組み、観光客への販売や周辺観光施設への卸販売、ネット販売などの展開を図った。加工事業は枇杷の付加価値を高め、40アイテム以上の枇杷倶楽部オリジナルの枇杷関連商品を生み出した。さらには地域の卸業者の商品開発にも影響を与え、枇杷は「南房総みやげ」として定着した。

枇杷倶楽部の自家工場
「一括受発注システム」の開発
南房総は小規模な観光事業者が多いため、観光バスツアーなど大量の観光客の受け皿が無いことが大きな課題となっていた。そこで、広域的な連携によって資源を束ね、集客を図る必要性を感じ、南房総に点在する小規模な既存の農園や食事会場などの観光資源を束ね、一つの大きな農園、レストランに見立て、メニューや料金、サービスを規格化し、枇杷倶楽部が観光会社に対して企画営業を行い、観光会社からの集客の配分、代金の清算、クレーム処理までを一貫して行う「一括受発注システム」の開発に携わり、南房総のランド・オペレーターとしての役割を道の駅に持たせた。
このシステムの稼働によって、周辺市町村の飲食店や民宿、農園、観光事業者などが連携して強い集客力を持つこととなり、ピーク時では観光バスを年間4千台、12万人のツアー誘致に成功し、これまで閑散期といわれていた南房総の冬に観光バスツアーが定着し、著しい地域波及効果があがった。またこの業務の効率化をさらに図るため、当時の通産省の助成を受け、電算システム化も図り、そのノウハウを全国に積極的に公開した。さらに、この仕組みを応用し、JR東日本と協働して個人ツアーのパック商品の開発やレンタカーの配備、南房総マップの作成などを進め、広域的な資源の結びつきによる、個人やグループ客誘致による地域振興を推進した。

一括受注システムにより集客した団体バス
人づくりと交流のための文化事業
地域振興の源は「人づくり」であるという町是に沿って、地域に根ざした文化事業による人づくりの展開を進めた。 1988年(昭和63年)、富浦町にとっては新しい文化である「人形劇」も地域文化へと取り込み、富浦町に伝えられている民話や里見八犬伝の人形劇化を図るとともに、富浦人形劇学校を開校。さらに毎年夏休み期間中には「子どもたちに豊かな文化を」をテーマに約1カ月間に亘る「富浦人形劇フェスティバル」を開催し、富浦町の文化性と知名度を向上させ、県内外からの観劇者も誘致した。

地元の民話を題材にした人形劇
また、地域の誇りの再発見や次世代への伝承などを目的に、地域に住む自然や歴史の専門家アドバイザーと協働し、心のなかに「ふるさと富浦」を刷り込んでいく「ウォッチング富浦」をスタートさせ、毎月実施するとともに、そのノウハウを応用し週5日制となった小学生を対象にした「とみうら土曜学校」の開校へとつなげた。

地域の誇りを発見するウォッチング富浦
さらに南房総で地道な活動やユニークな活動をしている方を講師として招き、お茶を飲みながら気軽に話を聞き、ものの見方や考え方の幅を広げてもらう「枇杷倶楽部茶論(サロン)」の毎月開催を実施した。これまでに、「ウォッチング富浦」は133回、「枇杷倶楽部茶論」は106回を開催し、現在も継続されている。
「南房総のポータルサイト」を目指す情報化
広域的な資源を組み合わせて集客を進めて行く中で、観光客のニーズに合わせた情報発信の必要性を強く感じ、利用者の立場に立ち、富浦町にとらわれない広域的なイベントや地域情報など鮮度の高い情報を収集して発信する 「南房総いいとこどり」と名付けたポータルサイトを構築した。

南房総のポータルサイト「南房総いいとこどり」
サイトには南房総全域の「INDEX電子地図」、様々な情報を百科事典風にまとめる「南房総バーチャル百科事典」、旅プランを提案する「南房総バーチャルプランナー」、広域の「イベント情報」、日々の出来事を簡単に発信できる「ヘッドライン・ニュース」等のシステムが組みこまれている。
また、これらのシステムを活用してパソコンやホームページを持たなくとも情報発信ができるよう、役場職員等がホームページ1ページを無償で作成する「1世帯1ホームページ運動」を展開した。
この試みは集客にもつながり、IT化の恩恵を受けにくかった小規模な農園や民宿、釣り舟などの経営者に歓迎されている。
地域に波及する枇杷倶楽部効果
このような取り組みは、次の効果をもたらした。
道の駅や花摘み園等の集客装置の整備と一括受発注システムにより、観光客は急増し、道の駅だけでも年間80万人もの利用者を迎え、花摘みやびわ狩り、海水浴などの観光客を合わせ、町の観光入り込み数を100万人にまで増加させた。
また、(株)とみうらの年間売上額は、1996年(平成8年)期より6億円台で推移して、黒字経営を維持し、町民の約1%に当たる60人の雇用を生み出し、富浦町内への直接支払額だけでも約2億4千万円となる企業に育った。
ポータルサイトのアクセス数は、現在月7万件を超える状況にあり、目標としていた年間100万アクセスが真近い状況にある。
これらの活動は、1992年(平成4年)に文化事業で自治大臣表彰、2000年(平成12年)には「全国道の駅グランプリ」で最優秀賞、2002年(平成14年)には過疎地域活性化で総務大臣表彰等を受賞した。
また、道の駅の事業化を契機に始まった試みは、「観光交流空間づくりモデル事業」の指定も受け、南房総地域に8カ所ある道の駅の情報連携に繋がり、富浦町では道の駅の第2ステージとなるミニ・ホールや、交通弱者や観光客のための交通機関結節拠点となる「田舎版ターミナル・ライド」の整備を開始する原動力となった。
他地域での観光振興への貢献
枇杷倶楽部の事業展開は国内外から注目を受け、開設以来、毎年百団体を超える視察の受け入れを続けている。同氏は求められて県内だけではなく北海道、青森、長野、鳥取、福岡、沖縄等で数多くの講演やシンポジウムのパネラーをつとめ「枇杷倶楽部イズム」を伝えている。
また、駒澤大学経済学部の夜間部での講義や、千葉県立館山高等技術専門校観光ビジネス科での3年間に渡る観光概論の非常勤講師、千葉県魅力ある房総観光地づくり推進員や県総合5カ年計画懇談会委員、国土交通省リゾート・アドバイザーなども務めた。
国外では、国際協力銀行がODAでタイ王国の20地域で建設した「産業村」の経営システム開発のため、2003年(平成15年)は3回訪タイし、ワークショップ講師およびアドバイザーとして携わるなど、広範囲な活動を続けている。

タイ「産業村」のシステム開発協力
参考資料
・国際協力銀行 国民参加型援助促進セミナー資料 町を起こした道の駅
・(財)地域活性化センター「月刊地域づくり」1997年11月号