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井上 重義(いのうえ しげよし)

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最終更新日:2012年9月20日

日本玩具博物館館長(兵庫県姫路市)
井上 重義(いのうえ しげよし)

主な経歴

1939年
兵庫県姫路市生まれ
1957年
山陽電気鉄道株式会社入社
本社で14年間(1970年~1984年)PR誌「山陽ニュース」の編集を担当
1974年
井上郷土玩具館設立
1984年
日本玩具博物館(改称)館長(~現在)
1987年
香寺町観光協会会長(1992年~1999年同副会長)
1993年
兵庫県文化賞受賞
兵庫県博物館協会理事(~現在)
2005年
姫路観光コンベンションビューロ理事(~現在)
2007年
地域文化功労者文部科学大臣表彰

カリスマ名称

郷土玩具の伝承文化を地域・観光振興に結びつけたカリスマ  

選定理由

郷土玩具や郷土人形といった子どもや女性の伝承・伝統文化の評価を高めるため、個人でユニークな玩具博物館を設立し、国内外から集客するとともに、日本の伝統的文化である凧あげ祭りや女性の伝統手芸である「ちりめん細工」の復興活動を通じて地域の産業振興にも尽力している。

具体的な取り組みの内容

玩具博物館の設立

井上氏は、1963(昭和38)年、通勤途中の本屋で斉藤良輔氏の著書『日本の郷土玩具』と出会い、日本各地に伝承されてきた郷土玩具の文化的な深みとそれが滅んでいく現状を知り、休日を利用して各地を歩き収集を始めた。  

郷土玩具は、江戸時代から明治時代にかけて庶民の間で作られ伝承されてきた玩具や人形である。身近にある木や紙、土などの自然素材を材料に、子供の健康、安全を祈願して各地で盛んに作られ、風俗や行事、信仰を色濃く反映し地域的な特色を持つものが多い。ブリキやセルロイドなどの近代玩具の出現で子どもの手から離れると多くのものが廃絶の道をたどり、子どもの遊び道具ということからか、評価も低く、顧みられることが少なかった。

そのような郷土玩具に、井上氏は「文化財」としての光を当てたいと考え、地方の玩具製作者や民家を訪ね、蔵の中で眠っている貴重な数々の資料収集に努めるとともに玩具にまつわる話もじっくり聞いてまわった。ひとつひとつ収集する苦労も好きだからとものともせず、さらに、収集のために訪れた大分県豊後高田の凧屋では「イギリスの大英博物館からは注文があったが国内の施設からはない」と聞かされ、各地の博物館や資料館を訪ねても、玩具や人形が博物館資料として扱われていない現状を知った。  
郷土玩具の文化的評価を高めるためには収集資料を公開する必要性を痛感し、1974(昭和49)年11月に自宅の一部46㎡を展示施設にして井上郷土玩具館を設立。それまでに集めた5000点にのぼる資料を公開した。当時、サラリーマンが博物館を造ったと大きな話題になった。

町のシンボルへ

町のシンボルへ  
開館後も資料の充実と施設の拡充を計り、国内最大の玩具博物館と認められるまでになった1984(昭和59)年4月に「日本玩具博物館」と改称した。

同時に子どもの文化遺産を守り評価を高める仕事に人生を賭ける決意をして45歳で会社を退職し博物館の運営に専念。国内のみならず海外からも消えつつある自然素材の玩具や人形の収集の収集活動を始め、たゆまぬ努力を積み重ねた。

収集に際して井上氏は、人が集めているから集めるのでなく、方針に沿って大切だと思ったものを地道に集め、そこでしか見ることが出来ないコレクションの構築を心がけた。世界140カ国から収集した8万点を超える貴重な資料の数々は白壁土蔵造りの6棟700㎡の建物で保存公開しているが、色々な角度から人形や玩具の魅力や面白さ楽しさを伝えるため、1号館と6号館で年間7回に及ぶ特別展を開催している。  

香寺町の人口は現在2万人。姫路市のベットタウンとして人口は増えているが、大きな観光施設も観光地でもなく、知名度も高くはないが、現在同館の年間入館者数は5万人、リピーター比率は約3割と大きい。同館は個人が設立した民間の施設であるが、1987(昭和62)年には兵庫県が実施した住民アンケートで町の顔に選ばれ、町としても同年、町立の公園と駐車場を同館前に設置、さらに進入路の整備や国道に案内標識を設置するなどの支援を行っており、町のシンボル的な存在として現在に至っている。

また、同館が設立されるまで、町に観光客が訪れることはまれであったが、同館はテレビや新聞・雑誌などで全国的に紹介されることが多く、香寺町といえば玩具博物館のある町と香寺町名の認識度も高まっている。  一方、井上氏は香寺町観光協会長として、香寺町の観光施設を巡る案内看板整備、町内散策のためのパンフレットの制作など、広く観光客を迎えるための受入体制の整備にも努めた。
企画展が開催される1号館
企画展が開催される1号館
紙・木・土で作られた日本の郷土玩具
紙・木・土で作られた日本の郷土玩具

全国凧あげ祭り

開館した1974(昭和49)年の頃は、輸入品のビニール製凧が大流行、日本各地の伝統凧が消えようとしていた。

井上氏は収集していた日本の伝統凧の素晴らしさを紹介すべく、館内で展示するだけでなく、「やはり大空を飛んでいる姿が本当の凧だから」と子どもたちの思い出作りも兼ねて、1975 (昭和50)年の新春から博物館前の田んぼを会場に凧あげ祭りを始めた。

当初は100名ほどの参加者が、祭りを重ねるうちに増えて会場が手狭になり、 1988(昭和63年)第13回から姫路市の協力を得て会場を姫路公園競馬場に移し、同市との共催によって実施している。祭り当日、井上氏は、進行役として参加した凧の解説を行うなど野外博物館的要素を演出する。

開催回数は30回を数え、各地から凧の愛好者が参加、20畳敷きもある大凧や全国各地の珍しい郷土凧があげられ、見物人は例年2万人を超える。新春の凧あげとしては全国屈指の内容で、播州路の新春行事として定着、地域の観光資源のひとつとなっている。  

現在、各地で全国から凧の愛好家を集めて凧あげ大会を開催するところが増えているが、日本玩具博物館の主催する「全国凧あげ祭り」は30年の歴史を持ち、全国の凧あげ大会の草分け的存在でもある。
毎年、珍しい凧があがる全国凧あげ祭り
毎年、珍しい凧があがる全国凧あげ祭り
12畳と6畳の大凧
12畳と6畳の大凧

ちりめん細工の復興活動

井上氏は、「子どもや女性の文化に光を当てたい」との信念から、1985(昭和60)年から忘れられていた女性の伝統手芸である「ちりめん細工の復興活動」に取り組んできた。

ちりめん細工は、着物の布地として親しまれてきた「縮緬」の端裂を縫い合わせて、花、鳥、動物、玩具、人形などの小さな袋ものを作る手芸で、江戸時代の後半に御殿女中や商家など裕福な家庭の女性の手から生まれた。

明治、大正、昭和と作り伝えられたが、戦争による世の中の混乱や生活様式の変化の中でいつしか忘れられた。同氏は手まりや姉様人形を集める過程でちりめん細工が伝える世界の素晴らしさを知り、資料の収集を行うとともに玩具博物館を拠点に制作講習会や作品展示会などを開催し伝承や普及に努めてきた。これまでに井上氏の監修で、NHK出版などからちりめん細工の作り方に関する文献を8冊出版。どの本も好評で重版が続き、各地で愛好者が急増。全国的なちりめん細工ブームの仕掛け人的存在であり原動力にもなっている。  

また、井上氏は、ちりめん細工に適した薄くて伸縮性のある縮緬が現在織られていないことに気付くとその再現に乗り出し、丹後の織元や京都の友禅染め屋の協力を得て明治時代に織られていた二越ちりめんの再現に成功、製造生産に導き地場産業の振興にも大きく貢献した。

近年、観光的に大きな注目を浴びている伊豆の稲取温泉の「雛のつるし飾り」や九州・福岡の柳川の「雛のさげもん」は、このちりめん細工を雛段の側に吊るして飾るものであり、同館の「ちりめん細工復興活動」が大きな影響を与えた。2005(平成17)年には、朝日新聞社の主催により同館のちりめん細工コレクションが全国で巡回展示されることが決定されており、活動はさらなる展開を見せている。
再現した色鮮やかな二越ちりめん
再現した色鮮やかな二越ちりめん
ちりめん細工の数々
ちりめん細工の数々

博物館の運営手腕にも高い評価

わが国には、現在約5千の博物館があるが、不況が続くなか、入館者の減少などで厳しい時代を迎えており、各地で休館や閉館のニュースを耳にする。

公設施設も自治体の財政悪化で予算規模の縮小を余儀なくされているところも少なくない。特に公設の場合とは異なり、独立採算となる個人運営では、入場料収入の低減は大問題である。

そうした中、井上氏は出版による印税収入や6名のスタッフとともに、ちりめん細工用に復元した二越ちりめんの通信販売などに取組み、全体としての収入は増加し同館は今日まで赤字を出すことなく独立採算での運営を実現。経営も安定している。  

また優れた所蔵資料の存在が知られるようになると各地の博物館から貸し出し依頼が相次ぎ、今春もアサヒビール大山崎山荘美術館で「動物の玩具にみる色とかたち」、富山県子ども未来館で「世界のからくり玩具」、今夏は愛媛県歴史文化博物館で「昭和の玩具」と同館資料による特別展が実施され、それらに伴う収入も増加傾向にある。こうした井上氏の運営手腕は高い評価を受け、博物施設運営を研究する「日本ミュージアム・マネージメント学会」の第1回学会賞に選ばれた。  

しかし、井上氏は、観光地でもなく、交通も便利とはいえない地にこれまで以上の観光客を集めるのは困難な時代が来たとも思っており、文化施設は集積してこそ都市の魅力が発揮できるのであり、今後は集客都市との連携による分館なども視野に入れながら、観光資源としての役割を果たしたいと考えている。  

ローカルからグローバルに発信

玩具博物館の展示ケースの延長は170m、来館者の心を捉える多彩で質が高く膨大な資料は、その内容から玩具博物館としては世界でも屈指と評価されるまでになっている。また、土蔵造りの建物と内容のユニークさとも相まって、国内のみならず海外からの取材なども多い。

これまでに韓国やブラジルのTVの取材に応じる一方で、海外へも招聘され、1989(平成元)年以来、ベルギー、アメリカ、ブラジル、スイス、韓国、中国などで日本の伝統玩具の展示会を開催、大きな成功を収めている。来館者の一人である元中国美術館副館長李寸松氏は、「姫路地域の『輝く真珠』であるばかりか、日本の宝石になる可能性を秘めた博物館であり、将来的には世界に向けての大きな影響力をもたらすだけの潜在力を持っている」と絶賛した。  

また、同館は、英語版のホームページも開設している。従来、外国人は、日本人に案内されて来館するケースが多かったが、最近はホームページを見て日本語のわからない外国人が単独で来館するケースもあり、交通不便な同館への来訪に「よくぞこんなところにまで来てくださった」と逆に感動すると井上氏はいう。 

博物館の新たな可能性へ

「博物館はアメリカやヨーロッパでは観光資源として大きな役割を果たしているのにわが国ではその役割を充分に果たしているとはいいがたい。それには入館者の知的興味を呼び起こすだけでなく、来館者を満足させ、感動させ、心を癒す場になることも必要」と井上氏は言う。玩具は単なる子どもの遊び道具ではなく、現代社会が忘れ去った数多くの文化を今に伝え、民族の教育、文化、風俗、美的感覚が凝縮した文化財である。来館者の多くは大人であるが、そのことを実感し感動するという。  

1998(平成10)年、日本玩具博物館は個人立では全国でも数例しかない博物館相当施設の指定を受け、さらに井上氏は、2000(平成12)年4月に博物館学芸員の資格認定を受けた。博物館の立場から「子どもにとって良い玩具とは」を追求するべく、博物館に子供が自由に遊べる空間を設け、様々なタイプのおもちゃを用意してスタッフと共に観察データを記録し、ハイテクおもちゃに慣れた子供でも郷土玩具などの単純なおもちゃに没頭し長時間遊ぶことに注目している。

世代を越えて伝承されてきたおもちゃには、子供たちが成長をしていくうえで大切な要素が詰まっているとの考えから、館の内外で、今の子どもたちも喜ぶ「身近な材料で作る伝承手作りおもちゃ」の講習会を開催して好評である。
博物館の新たな可能性へ
一方、博物館運営についても「企画で迅速な意思決定ができなければ活力がそがれる」と個人運営の方針を変えずにやってきたが、今も国内外から増えつづける膨大な収集資料と拡大する事業を考えると、次世代に館を引き継ぐには新たな組織形態に移行するなど次のステップが必要と井上氏は感じている。

「ミュージアムが都市を再生する」(上山信一他著・日本経済新聞社)が話題を呼んでいるが、井上氏は観光が海外からの人々を迎える時代を迎え、博物館が文化遺産を守り継承するという原点に軸を置きながら、観光における博物館の新たな可能性を模索し挑戦し続けている。
このページに関するお問い合わせ
日本玩具博物館(原則ご本人が対応)   
電話 079-232-4388   FAX 079-232-7174   
e-mail shigeyoshi@japan-toy-museum.org      

関連情報はこちら→日本玩具博物館のホームページ

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