最終更新日:2010年4月12日
長崎ランタンフェスティバル企画幹事会 幹事長(長崎県長崎市)
主な経歴
1946年
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長崎県生まれ |
1966年
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中華料理館 会楽園 支配人 |
1984年
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長崎青年会議所 イベント実行委員長 |
1987年
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長崎新地中華街商店振興組合催事部長(春節祭を始める) |
1989年
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長崎「旅」博覧会 「異国中国ゾーン」実行委員長 |
1990年
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長崎商工会議所 青年部会長 |
1993年
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長崎ランタンフェスティバル企画幹事会 幹事 |
1995年
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長崎ランタンフェスティバル企画幹事会 幹事長 |
カリスマ名称
「『長崎ランタンフェスティバル』を仕掛け、今日の成功に導いたイベントのカリスマ」
選定理由
林氏は、毎年長崎新地中華街で行われていた中国の「春節祭」を、より本物志向で、観光客も楽しめる大規模なイベントにするために、中華街関係者などを説得し、自ら中国にランタン(提灯)を買い付けに行くなどして、1994年(平成6年)に第1回目の「長崎ランタンフェスティバル」を開催した。以来、ランタンフェスティバルは80万人を集客する九州を代表するイベントに成長し、林氏は現在も企画幹事会幹事長として中心的役割を担っている。

中国獅子踊
具体的な取り組みの内容
長崎青年会議所・長崎商工会議所での活動
林氏は、1984年(昭和59年)に、長崎青年会議所イベント実行委員長として長崎市活性化のための提言「あなたがつくる観光長崎」をとりまとめ、長崎商工会議所に提出している。
この時の提言が、その後出島復元運動となって長崎市民の間にも広がり、現在長崎市で復元工事がすすめられている。出島復元は、これまで5棟が復元され、 2006年(平成18年)4月にはさらに5棟、最終的は25棟が復元されることになっており、文字通り観光長崎の目玉になることが期待されている。
長崎「旅」博覧会がきっかけ
1990年(平成2年)8月から11月までの94日間、長崎県、長崎市、長崎商工会議所など官と民が一体となった長崎「旅」博覧会が開催され、189万人の人出で賑わったが、このとき林氏は「異国中国ゾーン」の実行委員長として、イベントの企画、実行に采配をふるった。林氏は中国ゾーンの賑わいの一つとして、新地中華街近くで中国様式の結婚式を挙げ、繁華街をパレードした後、長崎港から船出して、港外の伊王島で祝宴を催すといったユニークなイベント「中華大婚礼」を思い立ち、これを実行したことが長崎「旅」博覧会を成功に導いた一つのきっかけともいわれている。
長崎「旅」博覧会の時に築かれた官と民の絆は、博覧会終了後も続き、ある時、長崎市から、それまで長崎新地中華街で行われていた「春節祭」を規模拡大して、「冬の灯り」をテーマとした県外から観光客も呼べるイベントにできないかという相談が長崎新地中華街商店街振興組合(以下、組合)に持ちかけられた。
長崎ランタンフェスティバルのスタート
春節祭は、それまで中国の旧正月を祝う伝統行事として、新地中華街で毎年1~2月に行われていたが、林氏は当時組合の催事部長として、春節祭の中心的役割を担っていた。春節祭を規模拡大することについて、組合でそれまで中小企業高度化資金を活用して牌楼門(ぱいろうもん)(四方門)を建設しており、その返済がまだ残っていたことや、組合員にとって本業以外にこうしたイベントに大きな労力が裂かれることを心配して、反対の意見も少なくなかった。林氏は新地中華街の発展に寄与することはもちろん、長崎市における観光客の増大や地域の活性化に繋がることを考え、理事長である実兄の照雄氏とともに組合員一人一人を説得して回った。

牌楼門と龍のオブジェ
また、このイベントは近隣の商店街の協力も必要であったが、商店主の中には中華街の発展のために何故自分たちが協力しなければいけないかと冷ややかな目で見る人もあり、こうした人達と何度も話をし、説得を続けた。そして、ついに1993年(平成5年)に長崎ランタンフェスティバル実行委員会が設置され、林氏はその中の企画幹事会の幹事として、また1995年(平成7年)からは幹事長として陣頭指揮にあたっている。それまで中華街で「春節祭」が行われていたとはいえ、魅力あるものにするためには、本場の中国や台湾、シンガポールなど現地に出かけ、勉強しなければならなかった。林氏は、率先して現地を視察し、単なる物まねではない、長崎に相応しいイベントとするための策を練った。
ランタンフェスティバルの中心になるのは様々な動物や人を形どった、きらびやかなオブジェであるが、こうしたオブジェを作る技術は長崎にはもちろん日本にもない。中国の成都からさらに車で10時間、自貢市(じこうし)にまで出かけ、ランタン(提灯)を製作している職人を訪ね、慣れないながらも値段の交渉をし、買い付けをしている。

オブジェ
観客を楽しませ、市民に定着させる
長崎ランタンフェスティバルは、2005年(平成17年)の2月で12回目を数えるが、決して同じイベントを繰り返してきたのではなかった。年々工夫を凝らし、規模を拡大することによって発展させてきたし、それが今日まで続いている成功の秘訣でもある。
スタート時は、メイン会場である新地中華街近くの湊(みなと)公園で、オブジェとランタン(提灯)を飾り、中華まんじゅうなどを食べさせる出店を並べ、毎土曜日、日曜日にイベントを行う程度であった。清朝時代の皇帝と皇后が街中で民衆と一緒に旧正月を祝う様子をイメージした「皇帝パレード」や、長崎に唐船が入港したときに船の守護神を唐寺に安置したという風習を再現した「媽祖(まそ)行列」なども、当初は現在のように華やかなものではなかった。回を重ねるたびに、市内の官公庁や多くの商店の前にランタンを飾ったり、子供の手作りランタンが商店街のアーケードに飾られたりと、市民の間でもより身近なものとして定着してきた。
林氏を中心とした長崎ランタンフェスティバル企画幹事会では、観光客をいかに楽しませるか、そして市民の間にいかに定着させ、市民にも参加してもらうかを常に考え、実行してきた。

湊公園オブジェ 1

湊公園オブジェ 2

皇帝パレードの挨拶

皇帝パレード

馬祖行列

子供の手作りランタン
100年続くイベントに
長崎ランタンフェスティバルが九州を代表する冬のイベントとして全国的にも知名度が高まり、期間中は福岡都市圏からバスを連ねて観光客が来るようになったことは、林氏の企画力と行動力によるところが大きい。第1回の観客数は14日間で15万人であったが、その後年々増え続け、第10回の2003年(平成 15年)は15日間で80万人を数えるまでに成長した。(2005年:平成17年の観客数は82万人)
こうしたことが認められ、2001年(平成13年)には(財)地域活性化センターの「第5回ふるさとイベント大賞」を受賞している。
林氏は、当初から、この長崎ランタンフェスティバルは一過性のものではなく、継続していくのだという信念を貫いており、今でもその気持ちは変わらず、「これからも100年続くイベントにする。」と言い続けている。

龍踊り

祭壇
参考資料
・2001年1月28日 朝日新聞
・2003年1月26日 長崎新聞
・2004年2月号 親和経済文化研究書発行「経済月報R&I」
・2005年1月26日 朝日新聞