最終更新日:2010年4月12日
萌木の村(株)代表取締役社長
清里観光振興会会長
高根町観光協会副会長
山梨県経済同友会幹事
八ヶ岳南麗活性化研究会代表幹事
主な経歴
1949年
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山梨県北巨摩郡高根町生まれ |
1971年
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日本大学法学部を中退し、喫茶、ロックを開店 |
1977年
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萌木の村株式会社と改組し、社長に就任 |
カリスマ名称
「開拓魂のカリスマ」
清里開拓の父、ポール・ラッシュ博士の遺志を受け継ぎ、清里を誇りの持てるような村にするべく活動を続けている。
選定理由
清里の急激な開発と没落を全て目の当たりにしながらも、清里を本物のホスピタリティーと感動を与えることができる地域文化のある観光地にするべく、人材育成やバレエコンサートの開催等地道に独自の活動を続け、流行に流されず清里の活性化に貢献した。
具体的な取り組みの内容
八ヶ岳南麓の活性化に努め、オルゴール博物館の開館、クラッシックバレエ公演「清里フィールドバレエ・コンサート」を開催、清里とドイツの若者達を対象にした海外研修を自費で支援し続ける、また、清里の間伐材を使用して「トナカイ」のオブジェを作り観光客の目を楽しませる等、高度成長時代「ミニ原宿」と化した清里、バブル崩壊後衰退しつつある八ヶ岳南麗の活性化に奮闘している。
清里に多く仲間がほしい
大学を中退し、1971年に清里で初めての喫茶店「ロック」を開店したのが、舩木氏の清里観光への関わりの端緒であった。当時は、町にいる若者がエネルギーを発散できる場所を提供しようというものであり、観光というよりも清里での仲間づくりという面が強かったかもしれない。その舩木氏の気持ちが伝わったのは、1日最大で25回転したという繁盛ぶりにも伺える。やがて、1978年にホテル「ハットウォールデン」のオープンにこぎつけた。
萌木の村
ホテルがオープンした頃から、清里では急激なリゾート開発のブームが始まる。豊かな自然景観、そしてポール・ラッシュ博士に始まる開拓の歴史は、清里を観光地として売り出すには十分な条件だった。女性誌がこぞって清里特集を取り上げ、若い女性に人気の観光地として発展を始めた。
しかし舩木氏は、それでいいのだろうかと自問自答していた。観光地としての哲学が地元に根付かないまま、ペンションや土産物店が次々と立ち上がるようでは、ポール・ラッシュ博士の志どころか、清里は金太郎飴のように個性のない観光地になってしまうのではないか‥‥そう考えた舩木氏は、いろいろな価値観が町の中に混在することが必要だと考え、地道にものづくりを続ける若者に活動の場を提供する目的で、有志と共に手作りの工房を中心とした萌木の村を創業する。
地道な活動
清里のブームは「メルヘン化」「原宿化」といったキーワードで語られるまま継続していたが、平成の時代に入ると、ブームは終焉を迎え、観光客は徐々に清里から離れていった。ブームに酔っていた人々は、ペンションの外観の塗装を変えるとか、リゾートホテル風に改装するとか、様々な手を打ってみたものの、もともと哲学もないままに観光施設の経営を続けていたこともあって、状況は好転せず、徐々に清里の町がさびれていった。
一方舩木氏は、有志と共に、清里に本当の文化を根付かせることに意欲を燃やし、地道な活動を続けていた。この地道な活動が、清里の観光に第2幕を開いていくのである。
清里の核となるオルゴ-ル
1984年清里の仲間と共にヨーロッパへ研修に行ったとき出会ったのが一台のディスク型アンティークオルゴール。この音色と存在感に魅せられ、街づくりのヒントとなるオルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」を1986年に開館した。舩木氏は、博物館を商売としてやるのではなく、オルゴールから地域文化を生み出すためにやっているのだという。オルゴールは全ての人が手に入れることができる芸術文化であり、清里の人々が地域文化を生み出す素材としてうってつけなのかもしれない。同じような趣旨で、博物館には日本の伝統的な陶器なども展示されている。
今、萌木の村には、博物館を始めとし年間入場者数が40万人にのぼり、没落から「復活」しつつある清里への集客の一翼を担っている。

オルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」
人材の育成
人材の育成にも力を入れている。1988年から、清里とドイツの10代の若者たちを対象とした海外研修を自費で支援する事業を始めた(萌木の村国際交流事業)。お互いのホームステイを通じて海外生活を体験した子供達が広い視野に立って街づくりを推し進め、清里活性化の担い手になってくれれば、という願いを込めた事業は10年間続いた。

ホームステイする若者たち
田舎から文化の発信を
1990年から始めた野外での本格的なクラシックバレエ公演「清里フィールドバレエ・コンサート」、第1回は3日間の公演、入場者数350人でスタートした事業も、昨年に開催された第13回は14日間の公演、入場者数8500人になり、世界でも類のない屋外バレエ公演に育て上げた。期間中は清里周辺の宿泊施設にも影響を与え、清里における夏のビッグイベントになりつつある。
出演者も日本バレエ界のトップ、今村博明、川口ゆり子両氏の主宰するバレエシャンブルウェストを招請し、本物志向をとった。これに清里のバレエスクールが参加することにより、住民の意識の高まりも獲得できた。
特に1995年には、八ヶ岳南麓を舞台とした創作バレエ「天上の詩」がバレエでは初めての文化庁芸術祭大賞を受賞、2000年には、ボリショイ劇場他でこの「天上の詩」が公演されるなど、このイベントを通じて、いつしか清里は「バレエのまち」と言われるまでになった。

清里フィールドバレエ・コンサート
ポール・ラッシュ博士の言葉
現在の清里は、かつて10代の女性が中心となっていた一時のブームの爪跡が残る一方で、舩木氏やその同志の地道な活動により、20~30代の女性を中心とした客層が訪れるようになってきた。
舩木氏は、これらの活動に飽きたらず、自然の劇場、音楽、造形に感動し、心を和ませることができる清里を実現するにはどうすれば良いかを常に考え続けている。その根底にあるのは、「清里の父」といわれたポール・ラッシュ博士のことば「Do your best, and it must be first class」(最善を尽くせ、しかも一流であれ)である