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近兼 孝休(ちかかね たかやす)

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最終更新日:2010年4月12日

株式会社琴平グランドホテル 代表取締役社長(香川県琴平町)
近兼 孝休(ちかかね たかやす)

主な経歴

1938年
香川県生まれ
1961年
有限会社料理旅館丸忠を設立 代表取締役
1973年
有限会社琴平グランドホテル 代表取締役 
1975年
株式会社琴平グランドホテル 代表取締役
1988年
琴平町観光協会 会長
1988年
四国こんぴら歌舞伎推進協議会 副会長
2003年
日本観光旅館連盟四国支部 支部長

カリスマ名称

「伝統ある門前町に新たな息吹を吹込み、躍動感ある”まちづくり”のカリスマ」  

選定理由

四国路の春を告げる風物詩の一つである『四国こんぴら歌舞伎大芝居』を1985年(昭和60年)に復活し、全国ブランドとして現在まで継続的発展をさせてきた中心的人物。さらに、1997年(平成9年)には温泉掘削を成功させ、『こんぴら温泉郷』をつくり、琴平地区の観光客の誘致に大きな役割を担っている。

具体的な取り組みの内容

『四国こんぴら歌舞伎大芝居』実現

琴平町は、香川県の中西部に位置する人口約一万一千人のまちである。金刀比羅宮は江戸時代から続く庶民信仰のメッカであり、『こんぴらさん』の愛称で親しまれ、全国から多数の参拝・観光客を集め、賑わいをみせてきた。現在でも、まちの就労人口の7割は何らかの形で観光産業に関わっており、観光は地域を支える基幹産業となっている。

しかしながら、第1回『四国こんぴら歌舞伎大芝居』が実現することになった年の前年、1984年(昭和59年)当時、琴平町への観光客は大底期といわれるまで落ち込み、老舗の旅館が相次いで廃業に追い込まれていた。

琴平町には1835年(天保6年)に建てられた、日本最古の芝居小屋である『金丸座』が現存している。娯楽の少ないかつては、『金丸座』で開かれた芝居の見物は大いに人気を呼び、近郷近在から大勢の人々が集まっていた。以来、第二次世界大戦後まで歌舞伎の上演が行われていたが、やがて廃館を迎えることとなり、その後は老朽化が進んでいた。その後、『金丸座』は1970年(昭和45年)に芝居小屋としては初めて国の重要文化財に指定され、1976年(昭和51年)には現在の場所に移築・復元され、現在に至っている。

1984年(昭和59年)7月、TBS系のテレビ番組『すばらしき仲間たち』の収録が『金丸座』で行われた。収容人員は730名と小規模であるが、江戸の当時を彷彿とさせる風格をもち、国の重要文化財に指定されるほどの素晴らしい芝居小屋でありながら長らく活用されることがなかった『金丸座』にスポットライトが当たることになった。

訪れた中村吉右衛門丈・沢村藤十郎丈・中村勘九郎丈の3名の歌舞伎役者たちは、すっかり『金丸座』に魅せられ、「これぞ歌舞伎の原点」「観客と一体になれる素晴らしい芝居小屋」「是非ここで歌舞伎を演じてみたい」を揃って賛辞の言葉を贈った。近兼氏は、琴平町の観光客が年々減少し、危機的状況になりつつあるのを感じていたため、ここで歌舞伎を公演してもらえないかと申し入れた。3名の素晴らしき仲間たちは、この申し出に即座に承諾の返事をくれたのであった。

しかし、『金丸座』は重要文化財であったため、当時の文化庁との折衝や、ノウハウが全く無い中での集客等、難問が山積していた。開催に至るまでの道程はまさに茨の道であったが、松竹やJTBへの協力要請を受持った近兼氏を始めとする関係者の努力と熱意が実り、1985年(昭和60年)6月27日に、第一回『四国こんぴら歌舞伎大芝居』の開催にこぎつけることが出来た。これは国の重要文化財に指定された舞台を活用した全国でも初めての試みであったが、関係者全員の熱意が結集したおかげで、この公演は連日満員盛況となり大成功を収めることが出来た。

以来『こんぴら歌舞伎大芝居』はマスコミ等にも盛んにとりあげられ、現在まで継続的に公演・継承されてきた。1990年(平成2年)には『国土庁長官賞』、2000年(平成12年)には『第48回菊池寛賞』を受賞し、2004年(平成16年)には記念すべき第20回目を無事開催することができた。
観劇客でにぎわう金丸座
観劇客でにぎわう金丸座
公演当初、近兼氏は、役者が御座船や篭、オープンカー等で華やかに入り込むイベント等を考えた。その模様がNHKを始め、報道関係で一斉に放映されたことで、同氏が「こんぴら歌舞伎」と地域観光を全国に発信した仕掛人として知られることとなった。又、公演開始後には松竹との折衝により公演日数を延演する等、まちおこしに多大の貢献をした。同氏の伝統を重んじながらも、常に新鮮味を大切にした考えが、『こんぴら歌舞伎大芝居』の今日の発展を支えている。
『こんぴら歌舞伎』お練り行列2
『こんぴら歌舞伎』お練り行列2
この『こんぴら歌舞伎大芝居』が地元琴平町と香川県に与えた経済効果は計り知れないものがあり、大底期にあった旅館の廃業を踏みとどまらせ、サービス業者の減少に歯止めをかける事に成功した。これら一連の取り組みが、全国の町おこしに与えた影響は計り知れないほど大きく、日本中の自治体関係者が視察に相次いで訪れた。

昔ながらの伝統的な芝居が復活したというに留まらず、重要文化財という貴重な地域資源の「保存と活用」をいう背反する命題を克服し、地域活性化に結びついたことに大きな意義がある。その後、全国的に様々な自治体において、芝居小屋が復活したのは周知の事実である。(秋田県の『康楽座』や熊本県の『八千代座』等)

温泉掘削の成功による『こんぴら温泉郷』の発信

1988年(昭和63年)の瀬戸大橋の開通により、空前絶後の活況を呈した香川県あるいは琴平町の観光業界も、それ以降はバブルの崩壊、海外旅行へのシフト、明石大橋開通による空洞化、レオマワールドの閉園等、厳しい状況が続いた。かつて隆盛を極めた団体旅行が減少の一途をたどっている状況の中では、女性・そしてファミリーに支持されるような新たな魅力づくりが必須となっていた。

『癒し』・・・現代人はその多くが、癒されたいという気持ちを抱えているという。四国には悠久の歴史を持つ『四国霊場88ヶ所めぐり』があり、いうなれば”ヒーリング・アイランド”としての土壌は伝統的に持ち合わせていた訳であり、これを如何にして現代風の『癒し』として再構築していくかが課題であった。温泉は現代の日本社会における『癒し』の象徴ともいえるものであり、1997年(平成9年)、近兼氏は長期ビジョンに立ち、自己所有地に私財を投じて温泉掘削を試み、成功させた。

さらに、これを地元の13館に分湯し『こんぴら温泉郷』をつくったことは、あらたな町の魅力作りに大きく貢献することとなった。2000年(平成12年) には『第一回こんぴら温泉まつり』を開催し、高知県の足摺温泉とタイアップし大きな相乗効果をあげ、他地区の温泉と協力し、こういったイベントを継続的に行うことが、強力なインパクトとなることを証明した形となった。『こんぴら温泉郷』は透明感の高い綺麗なお湯が評判となり、県外からの観光客のみならず、県内観光客における、究極の『安・近・短』として親しまれるようになり、より一層の地域活性化に成功した。
『こんぴら温泉まつり』参道パレード
『こんぴら温泉まつり』参道パレード

琴平町観光協会長の重責を担い邁進

一般的に「官民一体で取組む」と語られることがあるが琴平の場合は伝統的に、山上山下がお互いに手をとりあって発展してきた歴史があり、言うなれば『宮官民一体』となる。

ここ数年、金刀比羅宮は『エブリバディコンピラサン』と音頭をとって新しい世代に向けてメッセージを発信している。2004年(平成16年)は33年に一度の遷座祭でもあり、宮が収蔵する貴重な文化財の数々を公開して、盛況を収めており、同氏は琴平町観光協会長として、これらの情報を情熱を込めて全国に発信する等、琴平町の観光集客に大きく貢献している。

また、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の際には、一気に減少した観光客を取り戻す為に、中国地方から九州地方にかけて自らが中心となって、土下座外交ローラー作戦を展開し、効果はてきめんに現れることとなった。以降も琴平観光業者一体となって「お接待の心」「もう一度来てみたいこんぴらへ」と「接遇マナー教育」を定期的に開催し、「お客様のよろこびが、それをもてなした企業のよろこびとなり、さらに、それがお客様をお連れした企業へと繋がっていく。

これらが一つになった時に、それぞれの企業が発展する。」という『幸せの相乗効果』を唱え、サービス向上に努めていることは衆人の知るところである。同氏は1988年(昭和63年)に琴平町観光協会長に就任して以来16年間に渡り、琴平町の観光振興・地域発展における強力な牽引役として、現在もなお東奔西走する日々である。 

参考資料

・平成15年発刊 金刀比羅宮の「こと比ら」
・月間「インターかがわ」’96新春特大号(Vol.27 1996.Feb)
・香川経済レポート(2000.12.5 No.687)
このページに関するお問い合わせ
湯元こんぴら温泉華の湯 紅梅亭 支配人 松谷 勝様
電話   0877-75-1111
FAX   0877-75-5188
E-mail  koubai.front@hananoyu.co.jp

関連情報はこちら→四国こんぴら歌舞伎大芝居

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